――タイ・ポストモダンの旗手による哲学エッセイ・旅行記――池田雄一 / 批評家週刊読書人2020年5月15日号(3339号)新しい目の旅立ち著 者:プラープダー・ユン出版社:ゲンロンISBN13:978-4-907188-34-4本書は、プラープダー・ユンによる哲学エッセイ仕立ての旅行記である。著者は、タイの文化的アイコンとして、文学、映画、音楽といった分野で、その多才ぶりを発揮している。タイは二〇〇〇年代に入っても経済発展が続いており、日本の八〇年代のように、その景気の良さが文化領域にも影響をあたえていた。多くの芸術作品が戯画化された「タイらしさ」を強調するのに対して、プラープダーは短篇集『可能性』において、「周囲の人間との紐帯をもたない都市生活者」が登場する、「不条理に満ちた『筋のない小説』」を描くことによって、ポストモダン文学の旗手として評価されていた(本書「解説」を参照)。 スピノザの汎神論に他大な関心を持っている著者は、自然を崇高なものとして超越化する思想に疑いを持っている。そして自然の超越化の具体的なあり方を確認するために、フィリピンの「シキホール」という島にむかう。この島は周囲の住民から「黒魔術の島」として恐れられている。彼はその黒魔術の欺瞞を暴くというよりは、そうした信仰のメカニズムを確認するために島にむかうのだが、そこで見事な肩透かしを食らうことになる。こうした旅の記録と、哲学的思索が交互に繰り広げられている。 自然のあらゆる事象、人間の活動などは、ひとつの実体であるところの神の自己展開である。人間の精神のようなものは、この自己展開に包摂される。これがスピノザの思想の基本となる世界観である。これと対極にあるのがカントの道徳哲学である。カントは自然という領域と、自由という領域を切り分けている。カントにおける道徳的な行為は、そのような自然の因果律の切断として定義されている。たとえば「人に信用されたいのであれば嘘をつくな」というような、仮定にもとづく命令ではなく、たんに「嘘をつくな」という定言命法こそが真のモラルだとカントは主張している。 こうした定言命法と折り合いがいいのが、各種のテロリズムである。近代的な主権国家どうしの戦争は、当の国家の利害と密接に結びついているため、このようなモラルが問われることがなかった。一方でテロリストは自己の利害をカッコに入れ、理念のために過激な破壊的行動にでる。自然崇拝とテロリズムが似ているのはそのためである。著者はそのようなテロリストの例として「テッド・カジンスキー」を例にあげている。カジンスキーは過激な自然信奉者であり、産業社会に抵抗するために、実業界の実力者や知識人をねらった爆弾テロを敢行していた。こうしたモラルにもとづくテロ行為は、9・11の同時多発テロから、ニュースサイトのコメント欄にいたるまで、現代社会では、もはやありふれている。 もちろんスピノザの思想も現在ありふれている。資本の自己増殖も実体・自然・神の自己展開だと考えれば、加速主義のような通俗思想もスピノザの汎神論の範疇に含まれるからである。ラブロックの「ガイア」説を紹介するなど危険な橋を渡りつつも、著者の思考が基調として慎重に進められているのはそのためだ。そのリズムはたしかに知らない土地を歩くときのそれと似ているものだ。(福冨渉訳)(いけだ・ゆういち=批評家) ★プラープダー・ユン=タイの作家。映画監督アピチャッポン・ウィーラセクタン、作家ウティット・ヘーマムーンらとともに、タイ・ポストモダン文化を牽引する代表的存在。著書に『鏡の中を数える』など。一九七三年生。