「脱構築」から解放し、その本質をつかむ岩野卓司 / 明治大学教授・思想史週刊読書人2020年4月3日号(3334号)脱構築の力 来日講演と論文著 者:ロドルフ・ガシェ出版社:月曜社ISBN13:978-4-86503-094-5デリダが死んでからもう一五年以上が経っている。その間、時代も流行も変化していった。哲学においても思弁的実在論のような新しい潮流が誕生しており、デリダも新しい視点から批判の対象になっている。しかし、だからといってデリダの哲学的な重要性が失われてしまったわけではない。それならば、彼の業績を過去のものとはせずに、受け継いでいくことが今の私たちに必要なことではないだろうか。デリダ自身が「遺産相続」についての哲学的な問いを立てているから、よけいに継承について考えなければならないと私には思われる。アメリカで活躍してきたデリダの高弟ロドルフ・ガシェは、誠実なまでにこの継承について考えてきた一人である。現在デリダ研究の第一人者と目される彼は、デリダの著作を通して思考する必要性を強く訴えてきたからである。デリダの思想といえば、私たちはすぐに脱構築を思い浮かべる。しかし、デリダと脱構築を等号で結ぶという短絡は避けるべきだろう。もちろん、デリダの思想を脱構築として捉えることが間違いなのではない。そこに安住して思考を停止させることが問題なのだ。確かにデリダは、初期の頃から脱構築という言葉を反芻しながら深めていき、その結果、脱構築は技術的に転用可能な方法でもなければ、フッサールの「解体」やハイデガーの「破壊」のような操作でもない「出来事」だと述べるようになる。だが、それはかなり慎重な手続きを通してであり、脱構築を安易に一つのタイトルのように扱ってしまうと、デリダのテクスト自体への無理解につながる。だから、デリダを脱構築というタイトルから解放しなければならない、というのがガシェの主張である(「タイトルなしで」)。また、アメリカで隆盛を誇った「脱構築批評」についても、デリダの思想が踏まえている哲学的文脈の考察を怠っていることや、テクストの自己言及性や自己反照性の枠組みに留まっていることを、彼は鋭く批判している(「批評としての脱構築」)。ガシェは徹底的にデリダの作品に耳を傾けて思考することを要求するのだ。本論文集の巻頭に位置し全体のタイトルにもなっている「脱構築の力」では、デリダの『エクリチュールと差異』所収のジャン・ルーセ論「力と意味作用」が取り上げられている。そこでは、デリダは脱構築という言葉を用いずに「力の差異」の考えを展開し、この考えは「ロゴス中心主義の脱構築」よりも徹底した豊かな思想であるとガシェは考える。脱構築に囚われないことで、脱構築の本質をつかんでいる好例だと言えよう。本書の後半の「思考の嵐」ではガシェはアレントの「反省的判断力」の考えを論じ、「〈なおも来たるべきもの〉を見張ること」ではハイデガーの「来るべきもの」を問題にしており、それらを高く評価しつつもそれらの限界をも指摘している。それもデリダの思想と比較の上で不十分だと判断するからであり、両論文ともデリダの問いかけへの彼からの応答なのだ。ガシェの思想は、デリダの思想の本質に徹底的に忠実になることによって、デリダが見過ごしていたことやデリダが考えようとしたことまで含めて考えていこうとするものである。逆説的ではあるが、脱構築の考えを受け継ごうとする者は、脱構築に止まれないのではないのか。絶えず脱構築を括弧にいれたり、宙づりにしたり、抹消記号をつけて思考する必要があるのではないのか。そうすることによってはじめて、脱構築は受け継いだ者のなかで作動していくことになるのだ。(入江哲朗・串田純一・島田貴史・清水一浩訳)(いわの・たくじ=明治大学教授・思想史)★ロドルフ・ガシェ=ニューヨーク州立大学バッファロー校比較文学科卓越教授・哲学・比較文学・批評理論。一九三八年生。