――生と死、緊張と放散の揺れ動き――廣瀬浩司 / 筑波大学教授・フランス哲学週刊読書人2021年5月7日号生の力を別の仕方で思考すること著 者:吉松覚出版社:法政大学出版局ISBN13:978-4-588-15114-9 ジャック・デリダは初期の代表作『声と現象』(一九六七年)において、死への関係こそが生を可能にすること、それはある種の言語行為を媒体としていることを主張していた。「私は生きている」という言表は「私が死んでいる」可能性によってこそ可能になる。だから意味の理念性(その反復の可能性)は「構造的に遺言的である」。この立場からデリダは、フッサールの「生き生きとした現在」のただなかに他性との関係を挟み込むとともに、ハイデガーの「死に臨む存在」の思想に関しては、「死の瞬間」のアポリアを指摘し、その究極的な固有性を解体してゆくことになる。 だが本書はこうした現象学的アポリアにはほとんど立ち入らず、むしろこの解体作業を裏打ちしていたフロイトに対する論考をていねいに検討することから始める。そこであきらかになるのは、生と死という二つの欲動が絡み合い、緊張と放散の揺れ動きを作り出していることである。本書によれば、この主題が練り上げられるのは一九七五年度におこなわれた「生・死」と題されていた講義においてである。そこでデリダは生物学者フランシス・ジャコブの遺伝子についての科学的言説と対決し、「外部への開かれを伴いながら同じものでありつづける生命の運動」を明るみに出す。これを『グラマトロジーについて』のエクリチュール論と関係付けるならば、生命のエクリチュール論に展開するだろう。 だが本書は、デリダの「生・死」の思想がけっして一枚岩でないことも強調する。そのため著者は『法の力』のベンヤミンの翻訳論や暴力論における「生き延び」の思想を確認したうえで、一九九〇年代の民主主義論における「自己免疫性」の主題へと「生・死」の思想を展開していく。そこで強調されるのは、フロイトの「死の欲動」の概念の自己破壊的な側面、つまり変化の可能性である。この問題については、ラカンとの関係はもとより、精神分析の「喪」や「体内化」といった主題も関係してくるだろう。 私にとってもっとも興味深かったのは、最終章におけるシャンタル・ムフとの比較である。ムフの「闘技」的民主主義は、合意と異議のダイナミズムを保証するような「制度」の設立を図るものである。このいわば「ゆるい制度論」にたいしてデリダは、民主主義の自己破壊性と、その無限の改善可能性を、極限において結びつけることで、いわば強い制度論を展開する。制度の創設と維持を媒介するのが、本書が打ち出す「生・死」のダイナミズムなのだ。ついでに付け加えるならば、このダイナミズムは、個のかけがえのなさを、制度へと、すなわち、それが「身代わり」(レヴィナス)の可能性へとさらされる場へと、接続するものでもあるだろう。 最後に指摘せざるをえないが、デリダ自身がこの「生・死」の思想をじゅうぶん展開しているか、そして最後の「強い制度論」を語り切れているか、私にはやや疑問である。たとえば初期の現象学批判について、『我と肉』(月曜社)のロゴザンスキーは、ミシェル・アンリやメルロ=ポンティを援用しつつ、デリダ思想の閉塞を痛切に批判した。デリダの現象学読解は批判にさらされ、知識人としての政治論もいささか古くなりつつある。「生・死」論や動物論をはじめとする未完の講義の出版は興味深いが、それ自体としては問題提起にとどまる。だから研究者は新資料の紹介に満足せず、もう一度主著に立ち返り、デリダ思想の成り立ちそのものを根本から脱構築し、新たな問題そのものを創設することも必要だろう。それこそがデリダの遺産を継承することである。本書の論説も、デリダ思想の彼方においてこそ、輝きを放つことが期待される。(ひろせ・こうじ=筑波大学教授・フランス哲学)★よしまつ・さとる=立命館大学客員協力研究員・フランス思想・哲学。京都大学大学院博士課程修了。一九八七年生。