――乾いたユーモアに裏打ちされた批評の魅力――宮﨑裕助 / 新潟大学准教授・哲学/現代思想週刊読書人2020年5月8日号(3338号)ロマン主義と現代批評 ガウス・セミナーとその他の論稿著 者:ポール・ド・マン出版社:彩流社ISBN13:978-4-7791-2638-3ちょうど生誕一〇〇年となる昨年の一二月、日本語訳では久々にポール・ド・マンの遺著の一冊が刊行された。ド・マンが北米の脱構築批評を率いた領袖であることはよく知られているが、本書の主要テクストは、そうした活躍以前の、一九五〇年代後半から六〇年代の講義用原稿と論文である。そして七二年のロラン・バルト論、八一年の学会での応答コメントが追加されている。ド・マン当人が一冊の書物としてまとめようと意図した著作ではないため、構成上やや散漫な印象は否めないが、逆に言えば、五〇年代から晩年にいたる三〇年間のド・マンの活動が一望にできる内容になっているとも言える。 本書の大半を占めるガウス・セミナー(六七年)がやはり読みどころだろう。そもそもロマン主義は、合理主義や古典主義に抗すべく作家の天才的な創造性が芸術作品を通じて横溢し結晶するといったことを主張する個人主義や人間主義として理解されるべきものではない。他方、個々の古典を編年体で並べたときに帰納的に導かれる歴史的なカテゴリーのひとつとして記述されるべきものでもない。 そうではなく、ド・マンにとってロマン主義とは、そうした既存のアプローチが頓挫する瞬間に露呈する、いわば文学言語の出来事である。それは消極的にではあれ、作家の自己を解明したと称する解釈者が自己反省を迫られて陥らざるをえない盲目性として露呈したり、歴史を客観化したと称することで作品固有の時間性に背を向けてしまう文学研究者の否認の所作として顕現したりする。 ド・マンによれば、そうした事態に読み取られるものこそ、ロマン主義の作家たち自身が示している「真に歴史的な意識」である。その特権的な参照先は、まずもってルソー、そしてワーズワス『序曲』、キーツ『ハイペリオンの没落』、ヘルダーリンの後期讃歌、ボードレールの『悪の華』といった作品である。とりわけロマン主義的感性の起源とみなされたルソーについてヘルダーリンが抱くイメージの分析は、ド・マンの読解の白眉をなす部分だろう。適切なことに本訳書では、この部分(第七章)は定本としている書物からではなく、のちに発見され二〇一二年に別の媒体に掲載された版から翻訳されており、ド・マンのより完成された読解の筆跡を伝えてくれている。訳者の見識を特筆しておきたい。 ガウス・セミナーの頃は、ド・マンはまだ文学言語(修辞学)の問いに十分に取り組めておらず、その十全な展開は、七四年の『読むことのアレゴリー』を待たなければならない。しかし本書冒頭でジラールのロマン主義批判をド・マンがたどり直すなかで試みているのは、当時アメリカに一挙に流入してきたフランス構造主義へのド・マンなりの応答である。ズレを孕んだ小説の循環的時間性をめぐるド・マンのジラール批判は、構造主義がしばしば抑圧してしまう歴史性に対する、いわばポスト構造主義的な問題提起と軌を一にするものである。現在からみれば、ド・マンがこうした読解をフーコーともデリダとも違った仕方ですでに実践していたことに読者は瞠目させられる。 こうしたことは実のところ、たまたま本書に併載されたかにみえる七二年のロラン・バルト論により明示的な仕方で指摘できる論点である。バルトの歴史主義的な妥協を厳しく追及しているド・マンの問題設定が、言葉遣いこそ異なるものの、当初から一貫していたことに本書の構成は気づかせてくれる。 最後に、いっけん付け足しのように添えられた、晩年のド・マンの学会でのコメントは、けっして読み飛ばすべきでないということを強調しておきたい。とりわけフランク・カーモードへの慇懃無礼にもみえる批判的な応答は、ド・マンの悪魔的なユーモアが最高度に炸裂しているテクストだと言って過言ではない。翻訳ではどうしても読み取りにくいが、他の箇所ではしばしば息をもつかせぬほどに切り詰められたド・マンの批評の魅力は、こうした偶発的なコメントにうかがわれる乾いたユーモアによって裏打ちされていることがわかるのである。(中山徹・鈴木英明・木谷厳訳)(みやざき・ゆうすけ=新潟大学准教授・哲学/現代思想) ★ポール・ド・マン(一九一九-一九八三)=文学理論家、文学者、哲学者。元イェール大学教授・フランス文学・比較文学。「脱構築批評」の実践者として文学・批評理論における新地平を切り拓く。著書に『盲目と洞察』『読むことのアレゴリー』『ロマン主義のレトリック』など。