事柄を書き残すのか、まるごと焼却してしまうのか 飯盛元章 / 中央大学兼任講師・哲学 週刊読書人2022年4月8日号 遺稿焼却問題 哲学日記2014―2021 著 者:永井均 出版社:ぷねうま舎 ISBN13:978-4-910154-29-9 本書は、哲学者・永井均のツイートをまとめたものである。 多くの本は、(当たり前だが)読者に向けて書かれている。著者は、読者が進むルートを丹念に整備する。読者が知らなそうな概念や事柄について説明したり、議論のつながりに飛躍がないように調整したりする。ゲームのプログラミングに近いかもしれない。その結果、多くの本は、滞りなくプレイできるゲーム空間のようになっている。それは、「あなた」という主人公がやってくるのを待ち構えた空間だ。 だが、本書はそうしたものとは異なる。本書がつくりだす空間は、常連客が集うバーのようだ。マスター(永井)と常連客(フォロワー)とのあいだで繰り広げられるハイコンテクストな会話。今夜はじめてこのバーにやってきた「あなた」は、隅の席でその会話に聞き耳を立てる。「あなた」のために語られているわけではないその言葉を、完全に理解することはできないだろう。わかるところに対してだけ、こっそりと相槌を打ち、繰り広げられる会話になんとかついていく。そんな感じだ。 とはいえ、しばらく読み進めると、問題となっている事柄がなんとなくわかってきたような感覚になる。はじめて入ったバーも、二度、三度と通いつづけると、徐々に顔なじみになっていくのとおなじだ。バーに通い詰めるような感じで読み進めていくと、少しずつ議論の中身が理解できるようになっていく。この感覚が、本書のおもしろいところである。一章を読み終えるころには、常連客との距離も縮まり、少しだけ議論に交ざることが可能になっているはずだ。 本書のトピックを少しだけ紹介しよう。 まずは「遺稿焼却問題」について。これは、わたしの理解した限りで言えば、言語化することによって必然的に変質してしまうような事柄を書き残すのか、それともまるごと焼却してしまうのか、という問題である。もっとも純粋な事柄を徹底して隠すのかどうか、という問題だ。アイドルの引退、メールを返さないことなどに同型の構造が読み取られる。さらに、エピクロスの言葉「隠れて生きよ」にも通じるのだと述べられる。しかし、エピクロスは、そのような有名な言葉を残すことによって、隠れることに失敗してしまったのだと言える。永井は、そうした矛盾を犯してまでも語らざるを得ないなにかがある、という点に着目する。 もうひとつ、「超越論的冗談可能性」について。言語は、まじめな語りではなく、むしろ嘘をついたり、演技をしたり、冗談を言ったりする可能性によってこそ支えられている。これが、超越論的冗談可能性である。あらゆる発言に、「なーんちゃって」というさらなる発言による冗談化の可能性が張り付いているのである(永井均『〈魂〉に対する態度』参照)。 わたしは、永井自身の議論を離れて、ここからつぎのように考えてみたい。超越論的冗談可能性は、言語を超えて、世界そのものにも張り付いているのではないか。たとえば科学者は、自然物が「まじめに」振る舞っていると考えている。しかし、突然「なーんちゃって」とまったく別様な振る舞いをしだすかもしれない。これまで科学者に示されてきた自然法則は、すべて冗談だったのである。存在論化された超越論的冗談可能性へ。(いいもり・もとあき=中央大学兼任講師・哲学)★ながい・ひとし=日本大学文理学部教授・哲学・倫理学。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。著書に『〈私〉の存在の比類なさ』『これがニーチェだ』『マンガは哲学する』『なぜ意識は存在しないのか』『哲学の賑やかな呟き』『世界の独在論的存在構造』など。一九五一年生。