――スターたちの文学の宴、贅沢な愚行――高原英理 / 作家・文芸評論家週刊読書人2021年10月29日号ジュリアン・バトラーの真実の生涯著 者:川本直出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-02983-2 これを評するにあたり、いくらか読者にすまない気がしている。本書との理想的な出会い方読み方があるならこうだ。書店で、海外作家の伝記のコーナーに「誤って」置かれた『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』という本を見つける。聞いたことはない名だが「訳者」のあとがきによると日本で知られていないだけで大変人気のあったアメリカの作家の伝記らしい。未知への興味とともに購入、展開の面白さに惹かれて読み進めるうち、末尾の、小さい字で横書きに記された「本書はフィクションです」という一文に辿り着き、なんとこの巨大な伝記的回想の「翻訳」および解説すべてが川本直という作者による小説であったのだと知り驚愕し感嘆する。 と、ありたいところだが、この書評はその「まっさらな読者」の驚きを奪ってしまう。 評者が最後まで騙されたふりをしてジュリアン・バトラーという作家が実在すると思い込む「ぼんくらな読者」を演じ、評の公開後に読む人たちの驚きを減じないようにすることも考えはしたが、それではこの小説のフェイク・メタフィクションとしての価値を語ることができなくなってしまう。これは飽くまで書評なのだ。そこで仕方なく、ひとまずは仕組みを明かし、以下を書く。 本書は一九二五年に生まれ一九七七年に亡くなったジュリアン・バトラーという作家について、その生涯の伴侶である作家兼批評家が回想したという形をとる、全編架空の伝記であり、語り手のジョージ・ジョン(後にはアンソニー・アンダーソンと名乗る)も架空の存在である。従って訳者による「あとがきに代えて」も虚構だ。ジュリアンは容姿に優れ、女装を好む男性同性愛者で、表現・演技能力に富み、小説家をめざす。だが実際にバランスのとれた小説を完成させるにはジョージの手を借りなければならず、作家として名をなすものの、その作品はすべてジョージの代筆かリライトであった。この二人が一九五〇年代から七〇年代のアメリカの著名作家の間でヴィクトリーとトラブルを得てゆく経緯を冷静な口調で語ったものである。 これを小説と意識して読む場合、主に三つの見どころがある。 第一は言うまでもなくメタフィクションとしての、企みとフェイクとまことしやかさの面白さ、かつて前衛とされた手法の見事な使いこなし方である。読書をよくする人であれば本書の題名からウラジーミル・ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を思い起こすだろう。本書内にもその題名は出てくるし、架空の伝記という発想は『セバスチャン・ナイト』から来たものだろうことがうかがえる。あるいはまた、「天才」の友人とその作品について語るワトソン的記述者という形ならばスティーヴン・ミルハウザーの『エドウィン・マルハウス』が、作中で語られる架空の作品についての紹介ならスタニスワフ・レムの『完全な真空』『虚数』などが思い当たる。さらに「翻訳」の名目でオリジナル作品を発表するという方式にはボリス・ヴィアンの『墓に唾をかけろ』ほかの先例があった。 こういった知的企みによる「贋造物としての小説」はこれまで大方「実験小説」と言われてきたが、本書は既に「実験」であることを終えた「応用作品」である。ここには、記述の「当たり前」や「ありのまま」を疑い続けた作家たちによる過去多々の試みを学んだ後の達成がある。加えてこれは代作や盗作・偽作について考える契機をも与えるだろう。 第二は「オールスター作家登場」の華麗さに眼をみはる喜びである。英語に堪能で実際にゴア・ヴィダルにインタビューした経験もあるという著者は、一九五〇~七〇年代USAの文学状況をかなり正確に写し取った上で、この時代の社会意識、セレブリティの行動様式とともに、当時の著名作家がいかにもやりそうなことを描いている。そこにはヴィダルのほか、トルーマン・カポーティ、テネシー・ウィリアムズ、ノーマン・メイラー、ポール・ボウルズ、ウィリアム・バロウズ、あるいは当時まだ存命だったジャン・コクトーや、アーティストのアンディ・ウォーホール、ミック・ジャガー等々多数のスターが現れ、文学の宴(というか多くは大喧嘩)を繰り広げる。「天才」とされた著名作家たちのとりわけ人間性の低い発言に失笑しつつ、これら贅沢な愚行を読むことが愉しいのだ。 第三は、ゲイ小説、もっと正確にはクィア小説としての、いわば主張の正当さである。この小説が舞台とする時代にあった実際の「ゲイ小説」(と後に呼ばれたもの)には、たとえばジェイムズ・ボールドウィンの『ジョヴァンニの部屋』(一九五六年)に代表されるように、あるいは日本でなら三島由紀夫の『仮面の告白』(一九四九年)もそうだが、「『ノーマル』な異性愛者でありたいのにそうなれない同性愛者の無念と悲しみ」といったネガティブな発想が常にあった。それらは多く悲劇的に語られ、でなければジャン・ジュネの作のようにひたすら反社会的下降を礼賛するものとなった。本書は、女装を愛する、しかし性転換願望はない男性同性愛者ジュリアンが、一度も自分のセクシュアリティを偽らず、またそれを嫌悪・卑下することなく、自らを誇りつつ生きる様子を描くもので、ここには隠蔽もルサンチマンも悲劇的屈折もない。現在だから書けるものなのかも知れないが、であればそこがフィクションゆえの価値なのである。 ゲイ・クィアを恥じない姿勢は、これも同性愛者の語り手の、晩年の幸福を語ることにも示される。アンソニーはジュリアンの死後しばらく経って、血縁にも結婚にもよらない家族を得る。そこでは、ゲイは幸せになれないというかつてのモラルの命ずる物語は破棄され、性別にもセクシュアリティにも関係なく気の合う者同士が自由に行き来する「なかよし暮らし」が成立している。本当にこうありたいものだと思いつつ私は本書を閉じた。(たかはら・えいり=作家・文芸評論家)★かわもと・なお=作家・文芸評論家。著書に『「男の娘」たち』、共編著に『吉田健一ふたたび』。本書が初の小説となる。一九八〇年生。