――反冷戦期的イデオロギーとしての地域主義的伝統――山根亮一 / 東京工業大学准教授・アメリカ文学週刊読書人2020年6月5日号(3342号)評伝 ウィリアム・フォークナー著 者:ジョエル・ウイリアムソン出版社:水声社ISBN13:978-4801004733ウィリアム・フォークナーの伝記史というものがあるとすれば、それはいまも更新中だ。まず、彼の伝記を最も徹底的に書いたのはジョーゼフ・ブロットナーである。彼のフォークナー関連の出版物のなかには、二巻本『ウィリアム・フォークナー』(一九七四年)とそれらを一巻に集約・改訂した一九九一年版の著作がある。また、一九四〇年代から約半世紀ものあいだ資料収集に勤しんだカーヴェル・コリンズの努力も見過ごせない。ブロットナーのような伝記は残さなかったが、テキサス大学に保管された彼のアーカイヴには膨大な資料が存在する。その内容の多くは、ブロットナーがあえて触れなかった、またはフォークナー自身や彼の家族が触れてほしくなかった、この作家の実像に迫るものだ。そして今年になって、この百以上あるコリンズの資料箱を全て閲覧した最初の人物だと自称するカール・ロリソンが、伝記『ウィリアム・フォークナーの人生』を出版した。その第二巻も今秋には上梓される予定だ。 さらに今年は有難いことに別の仕方でも、このフォークナー伝記史に新たな足跡が残された。はじめて本格的なこの作家の伝記が和訳されたのだ。ジョエル・ウィリアムソンの『評伝 ウィリアム・フォークナー』である。 一九九三年出版のこの伝記をいま読む意義は、その歴史性にある。この年にはもうローレンス・H・シュウォーツの『フォークナーの評価を創造して』(一九九〇年)が世に出て暫く経っていた。同書は、第二次世界大戦以前はあまり高く評価されなかったフォークナーが一九四九年度のノーベル文学賞を獲得するまでにいかに政治的な理由で再評価されたかを説明している。戦後イデオロギー闘争のなかで、歴史家アーサー・M・シュレジンジャー・Jr.ら反全体主義的知識人たちは共産主義とも無方向な産業主義とも異なるアメリカの在るべき姿を模索していた。そうした時代思潮のなか、フォークナー作品の革新性と個人主義が理想的なアメリカ自由民主主義の表現として再発見されたのだ。このことを示すシュウォーツは、たとえばジョーダン・J・ドミニーの『南部文学、冷戦文化、そして現代アメリカの要素』(二〇二〇年)を含む、フォークナーと冷戦を関連付ける多くの研究に影響を与えている。 しかし、シュウォーツの著作はあくまで冷戦文学・文化批評の領域において重視されてきたと述べるに留めるべきだ。フォークナー研究において支配的な歴史とはアメリカ南北の地域的二項対立をめぐるものであり、世界の東西を分かつイデオロギー対立についてのものではない。冷戦終結後に出版されたウィリアムソンの伝記もどちらかといえば明らかに前者の歴史の方に寄与している。彼の伝記の原題をそのまま訳せば『ウィリアム・フォークナーと南部史』であることを想起したい。 ウィリアムソンの地域主義に驚きはない。彼の所属したノースカロライナ大学は有名歴史家C・ヴァン・ウッドワードやフレッド・ホブソンらを擁したアメリカ南部史の牙城だ。また、一九五三年にフォークナーを主な題材とした論集『南部ルネサンス』を編集したルイス・D・ルービン・Jr.(ウッドワードも寄稿した論集だ)もいわゆるノースカロライナ学派だ。彼は一九九〇年代、ニュー・アメリカニズムと呼ばれる文化と政治を接続させる批評方法が流行していた時代に、頑なにフォークナー作品とイデオロギー的言説を結びつけるのを拒否したことがあった。これらのことを考慮すれば、ウィリアムソンの伝記それ自体がフォークナー研究の歴史、またはその反イデオロギー的態度としての地域主義の伝統を物語るといえる。 謝辞において自らの著作を小歴史だと表現したウィリアムソンは、アメリカ南部史におけるフォークナーの人生、そして彼の一族の歴史に焦点をあてることで、冷戦期イデオロギー闘争にみられるような、より大きな歴史がもたらす政治性を封じ込めているようにみえる。だが、彼自身に元々どのような意図があろうと、それは不可能だ。同謝辞のなかには彼がロックフェラー財団の支援を受けていたことが示されているが、この組織が中央情報局(CIA)とともに前掲シュレジンジャーを含む反全体主義的知識人グループ、文化自由会議の活動を支援していたことは同書の出版当時でもよく知られていた。フォークナー自身もこの団体の活動に協力したことがあった。ところがウィリアムソンはこの作家を取り巻く冷戦期的イデオロギーを、少なくとも彼の一族の歴史ほどは、強調していない。 しかし冷戦文学・文化批評が成熟したいま、本書を手にする読者は小さな歴史と大きな歴史の両方を概観できる立場にある。フォークナーの伝記史がいまもなお持続しているのは、この作家の人生がそれだけ様々な歴史の交錯する場であったからだ。(金澤哲・相田洋明・森有礼監訳)(やまね・りょういち=東京工業大学准教授・アメリカ文学) ★ジョエル・ウィリアムソン=ノースカロライナ大学チャペルヒル校名誉教授。専門はアメリカ南部史。一九二九年生。