日仏の精神分析思想史研究の蓄積の上に実った重要な成果 上尾真道 / 京都大学人文科学研究所研究員・精神分析・思想史週刊読書人2022年1月7日号 精神分析の再発明 フロイトの神話、ラカンの闘争著 者:工藤顕太出版社:岩波書店ISBN13:978-4-00-061487-0 フロイトからラカンへ――精神分析にとってのみならず、二〇世紀の思想史にとっても重要なこの系譜については、よく知られる「フロイトへの回帰」というラカンのスローガンが一見与える忠実さの印象とは裏腹に、そこで企てられた大胆な読み替えの意義と射程がしばしば論じられてきた。本書は、この回帰と刷新、修復と改造とが複雑に入り組むダイナミックな運動を「再発明」と名付ける。所与のものをただ受け継ぐのでも、まったく新たに作り直すのでもない、反復のうちに新しさを宿らす運動。さて、この運動は、本書の題が暗示するとおり、フロイトからラカンへという移行の内実を、もうひとつの移行によって二重化している――すなわち神話から闘争へ。 この移行を三部構成として詳らかにする本書の流れを、簡潔に追いかけてみたい。評者はこの構成を、移行の三つの位相として整理することができると考える。 第一の移行は理論的と呼べる。第一部に展開されるように、ここではラカン理論がフロイト理論の読解を基盤に飛躍を遂げる様が、両者のテクストの精緻な突き合わせによって辿られる。しかしここで重要なのは、それが、フロイトの経験論的な表現形式を、より洗練された抽象へ移すといった問題ではないということだ。第一章、特にエディプスコンプレクスと去勢の概念の検討を中心に明らかにされるように、ここには理論内部における劇的な方向転換が含まれている。すなわち感性的なもの(ペニス)から出発して象徴秩序(ファルス)に向かうフロイトに対して、ラカンはむしろ感性的なものこそ象徴秩序によって規定されるとみなすのである(三五頁)。この反転の意義は、さらに第二章で、ラカンのカント読解との関連から深められる。象徴秩序へ与えられた優位は、かえってその彼岸という問題を先鋭化し、ひいては〈他者〉の享楽、そしてそれに直面する主体の分裂といった問題系の前に我々を引きずり出してくる。こうして最終的には、フロイトが提示した起源的〈他者〉たる原父、その神話的身分を再考に付すという課題にまで至るのである。 つづく第二部は、まさしくこの神話を、トラウマ、事後性、原因といった精神分析臨床に特有の時間的拍動に関わる概念を手がかりに突破せんとする、いわば脱神話的移行が吟味される。単にフロイトの原父神話の虚構性が強調されるだけではない。そのことは、「起源」なるものの、「根拠」としての身分をも疑いに付すことになる。こうして、象徴秩序の起源的創立者とみなされた父(「父の名」)が、実のところ、起源的自己原因の破綻を、事後的に代理するものに過ぎないことが論証される(一二六頁)。この事実は、本書の中心軸をなすともいうべき第四章で、直ちに、精神分析の起源としてのフロイトとその学説にも向けられる。「精神分析なるもの」を支える神話と理想化を掘り崩すこと、それこそが精神分析の大義であり、まさにそれゆえに精神分析は、己に忠実に己を裏切りながら、己を「再発明」せねばならないのだ。 この逆説的な精神分析的大義の析出を、最後に著者は、ラカンが身を置いた精神分析運動の歴史の内側で検討する。父祖フロイトの膝下に組織された国際精神分析協会(IPA)は、自身、ファシズムによって迫害されつつ、やがて同じ排斥の身ぶりによってラカンを「破門」するに至った。その歴史的過程を追いながら、著者は、六八年のパス制度の提案にまで至るラカンの反IPA闘争が、この精神分析的大義に支えられた実践の「革命」運動であったことを明らかにしようとする。こうしてこの最後の議論において、我々は、神話から闘争への移行が、精神分析の伝達と組織化の原理をめぐってなされた、実践的移行であったことを確認するのである。 本書はこうして、丹念なテキスト読解と精神分析運動史の詳細な調査とによって、フロイトとラカンという二つの特異な思想のあいだに生じる「再発明」という閃光的関係そのものの概念性に光を当てた。日仏の精神分析思想史研究の蓄積の上に実った重要な成果と言うべきである。と同時に、この確固たる足場は、我々がラカンという出来事の後で、再発明の拍動を維持しながら、さらなる研究へと向かうことをもまたしきりに鼓舞してくれるようである。(うえお・まさみち=京都大学人文科学研究所研究員・精神分析・思想史)★くどう・けんた=日本学術振興会特別研究員PD・フランス哲学・精神医学史。一九八九年生。