――かつての日々に深い意味が与え返されてゆく――高原到 / 批評家週刊読書人2020年4月10日号(3335号)暗い林を抜けて著 者:黒川創出版社:新潮社ISBN13:978-4-10-444410-6作品は、京都の大学生の「わたし」に、祖母が脳出血で倒れた、という知らせが入るところから始まる。実家のある奈良市の病院に植物状態の祖母を見舞った「わたし」が、彼女の手を握ると、驚くほどの強さで握り返してくる。「おばあちゃん、ちゃんと、わかったはるやん。手かて、握り返さはる」思わず口にすると、それは物理的反射にすぎないと素っ気ない口調で父は言う。その出来事が心にかかり、「わたし」が大学の新聞学科の同級生で、恋人ではないが時折アパートに泊まっていくことのあった有馬君に話すと、彼は叔母が倒れたとき同じようなことを思ったと言い、また手を握って話しかけてあげたらいい、とすすめた。しかし「わたし」はなぜか、そうする、とは答えられなかった。 この印象的な心と心の出会い、あるいは心と心のすれちがいから、物語は幾つもの細流へと流れだし、遠くにあったはずの水系を思わぬかたちで重ねあわせつつ、だがけっして拡散も収斂もしきらぬまま、読者をさまざまな出会いとすれちがいに立ち会わせる。中心にいるのは、冒頭で「わたし」と語りだした綾瀬久美ではなく、大学を出たあと結局二度と彼女と会うことはなかった有馬章である。通信社の記者になった有馬は、大学のゼミの仲間だった春田ゆかりと結婚したが、休日出勤と転勤が重なる仕事に追いたてられ、仕事をして自立を果たしたいというゆかりと離婚する。その後再婚して息子を授かるが、四十半ばの働き盛りで大腸がんに侵され、五年後に再発してもはや最期を覚悟しなければならない窮境にある。その有馬の「末期の目」に、久美やゆかりの視線が絡まり、そのゆるやかな光の交錯のなかで、かつての日々に深い意味が与え返されてゆく。 その巧みな語りの結節点になっているのが、二度の世界戦争や原子爆弾、シベリア抑留やユーゴ内戦といった惨事の記憶と、それらが破壊し尽くす閉域をくぐりぬけて外なる世界へ移ろってゆく人々の精彩あるポートレートだ。途中、二度にわたって紹介されるスティーヴン・ホーキングの『ブラック・ホールとベビー・ユニヴァース』理論が、この万華鏡のような作品の成り立ちを、中心で引き絞っているように感じられる。ブラック・ホールに引きずり込まれた宇宙飛行士は、別の宇宙の芽であるベビー・ユニヴァースに抜けだすことができる。ただし彼は実時間ではなく、虚時間を生きることになる。深い穴のなかで出口を探しながら生きてはいても、もとの場所に戻っていくことはできない。――ベビー・ユニヴァースとは、世界から隔離されたサラエヴォの人々が生きている時間であり、死に瀕した有馬がページの尽きない書物のように繰り返し読み直す久美やゆかりとの交流であり、つきつめれば、虚時間が流れる場所としての他者の「心」にほかならない。 作品の終わりちかく、祖母が手を握り返してきたという遠い昔の久美の言葉を有馬が思いだし、植物状態と言われる人にもベビー・ユニヴァースとしての心があると感じるとき、そして彼がひそかに母とも恋人とも想っていた叔母にはるかな思慕を寄せてゆくとき、私たちの心にも、有馬や久美やゆかりの「心」と触れ合い、そしてすれちがってきたという深い実感がこみあげてくる。虚時間を生きる小説という虚構=ベビー・ユニヴァースを読むとは、まさにこういう経験なのだというふるえるような感慨とともに。(たかはら・いたる=批評家) ★くろかわ・そう=作家。著書に『かもめの日』(読売文学賞)『国境完全版』(伊藤整文学賞・評論部門)『京都』(毎日出版文化賞)鶴見俊輔・加藤典洋共著『日米交換船』など。二〇一九年『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞受賞。一九六一年生。