――現代批評の激しい振幅を感得するために――髙澤秀次 / 批評家週刊読書人2021年4月9日号本を読む、乱世を生きる 福田和也コレクション1著 者:福田和也出版社:KKベストセラーズISBN13:978-4-584-13925-7 本書で「社交の達人」として紹介されている西部邁と福田和也の訣別の引き金になったのは、作品を点数化して現代作家を品定めした『作家の値うち』という福田の旧著だった。二人はその後、『文學界』誌上で『論語』をめぐる連続対談を行うが、どうした事情か決裂し未刊のままお蔵入りしている。『作家の値うち』が、「何を読むか」という疑問に答えた書物だとすると、『贅沢な読書』は「どう読むか」に答えた本だと著者は語る(第一部「なぜ本を読むのか」)。 すると福田は旧著で、あらかじめ値札を付けた作品を「商品価値」の分からぬ読者に示したことになる。そこでいま評者の記憶に鮮やかに甦るのは、一九九二年六月に行われた井上光晴の葬儀での谷川雁の弔辞だ。 三年後には自身も逝ってしまうのだが、谷川は「新しい雲となった光晴」に、「お主の残した文字については、プロレタリアのプの字も分からぬ連中があれこれの値札をつけるだろう」と語った。そんな後世代と渡り合うことを、断固拒否する決意表明として。 第三部(「乱世を生きる」)に至って明らかになるのは、本コレクション(全3巻)が、プロレタリアのプの字も分からぬヤンガー・ジェネレーションを念頭に企画されたことだ。時代的な射程としては、概ね3・11以前ということになる。だが読者諸氏は、宮本武蔵の『五輪の書』をめぐる著者の蘊蓄(第三部第十章「人を斬る覚悟があるか」」)などにかまけている場合ではない。真っ直ぐに、第二部「批評とは何か」の「柄谷行人氏と日本の批評」(第四章)の方に赴くべきであろう。 そこにも時代的な制約がないわけではない。実際、『トランスクリティーク』以前、『世界史の構造』以前の論考であるため、福田はここで柄谷の「現在」と真に渡り合っているわけではない。だがしかし、柄谷的批評の本質として、「二つの事象を並置し、この差異に批評性を見いだすスタイル」を指摘しているのは重要だ。 何故ならそれこそが、夏目漱石からカント、マルクスをめぐる考察まで、一貫して働いている柄谷行人の批評的視差(パララックス・ヴュー)に他ならないからだ。 とりわけ福田が、マルクスを論じる柄谷の方法に触れながら、「交換を強いる諸々の力」に注目しているのは見逃せない。まさに柄谷行人の「現在」は、福田の語る「交換の場に現れる誘惑や勧誘といった行為」の背後に働く「力」の研究を主眼としているからである。 プロレタリアのプの字くらいには関心のある読者は、ぜひ「ヘミングウェイ幸福な時間――『移動祝祭日』」(第一部第二章「贅沢な読書」)と、一九七〇年の柄谷の初期論考「反ロマネスク・ヘミングウェイ」(『柄谷行人書評集』)を読み比べてほしい。そこから確実に、現代批評の激しい振幅を感得することができるはずだ。 プロレタリアなど知るかという御仁は、第三部第八章「価値ある人生のために」の「若き友」N 君の父(福田の年長の友人)との死の直前の面会のことを語ったエッセイ、「明日泣く」を続刊のコレクションで探し当ててもらいたい。[解説一]で伊藤彰彦が指摘している(「実録外伝・福田和也」)が、そこに色川武大の同名の短編小説への言及がある。 このエッセイをめぐって、評者は同名の洋画(解説者が映画化した邦画ではなく)を想い起こす。スーザン・ヘイワード主演(一九五五年)で、スターダムにのし上がった女優の転落の人生を描いた佳作だ。そこにアルコールが絡んでいたこともあって(短篇の枕にアル中女の唄〝アイル・クライ・トゥモロウ〟を振っている)、五十を目前にしての福田の友人の誇りある早世との対照が、残酷に浮き彫りにされる。(たかざわ・しゅうじ=批評家)★ふくだ・かずや=慶應義塾大学環境情報学部教授・文芸評論家。慶應義塾大学大学院修士課程修了。一九九三年、『日本の家郷』で三島由紀夫賞を受賞。著書に『甘美な人生』『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』『昭和天皇』『総理の値打ち』『人でなし稼業』など。一九六〇年生。