――文学者や思想家はいかにラスコーを継承してきたか――港千尋 / 多摩美術大学美術学部教授・映像人類学週刊読書人2021年4月9日号洞窟の経験 ラスコー壁画とイメージの起源をめぐって著 者:吉田裕・福島勲(編)出版社:水声社ISBN13:978-4-8010-0494-8 旧石器時代の芸術のなかで、最も知名度が高いのはラスコー洞窟である。美術史の多くはラスコー洞窟で始まり、中学高校の美術の教科書で見覚えのある人も多いだろう。ウマ、ウシ、シカなどの彩色壁画は、一万七千年前から一万九千年前に遡る後期旧石器時代に描かれたと推定されているが、数ある洞窟壁画のなかでもラスコーは、アートの誕生の瞬間を伝える特別な場所として、あまりに有名だ。 だが「アートの誕生」が知られるようになったのは、それが描かれた年代に比すればごく最近のことで、一九四〇年秋のことだった。第二次大戦下にあるフランスでは、各地でレジスタンス活動が起きていて、洞窟は武器の隠し場所としても使われていた。当時レジスタンス活動に参加していたアンドレ・マルローは、まだ発見当時のままだったラスコーの壁画を目撃し、そこが「聖なる場所」と直感した幸運なひとりだ。後に文化大臣として、彼は洞窟の保存を理由に閉鎖を命じることになる。というのも一般公開で大群衆が押し寄せ、洞窟内の環境が急変して、貴重な絵をカビが覆いはじめたからである。 以上の簡単な紹介からも察せられるように、『洞窟の経験』というシンプルなタイトルには、とても一筋縄ではいかない洞窟の謎が隠されている。芸術の起源は確かに旧石器時代にあるかもしれないが、その「経験」を発見された国の文化や政策と切り離して考えることはできないからである。そのことは編者のひとり福島勲が紹介するラスコー洞窟の最新のレプリカやポンピドゥー・センターの展示内容からもよく分かる。西山達也が示すように、ラスコーの動物たちは、闇のなかに取り残されているように見えながら、現代の思わぬ場所にモンストラーレ=出現し、わたしたちに暗闇の奥に潜む、自由な空間を経験させるのだ。 謎の解明は考古学者だけに託されてきたわけではなく、特にフランスでは戦後美術、文学、哲学、思想といった幅広い分野で横断的に取り上げられてきた。具体的にはジョルジュ・バタイユ、ルネ・シャールからモーリス・ブランショ、ジャン=リュック・ナンシーにいたる文学者や思想家によってラスコーがいかに経験され、いかに継承されてきたのかを知ることは、絵の年代や内容を知ることと同じくらい重要である。 わたしは本書を読みながら、これらの作家や思想家とともに洞窟を経験するスリルと喜びを味わい、同時に著者たちはそのための最良にして素晴らしき旅の同行者と感じた。本書前半は、ラスコーを思想の言葉で語った最初の人として、バタイユの有名な論考が詳細に検討され、さらに旧石器をもって原子力時代を批判するルネ・シャールの深い洞察、そのふたりを読み込みながら独自の「芸術の始まり」を展開するブランショが中心になる。吉本素子、吉田裕、郷原佳以の連携は、多くの読者の知的興奮を呼び覚まし、イメージを経験することの複雑さ、連鎖する眼差しの力、想起の力を思い知らされるだろう。特に起源はひとつでなく、「根源的に差異化し繰り延べるかのように」して何度も始まるというブランショの考えを、「起源的なものにまといつくヴェール」と表現する郷原の考察は、とても面白い。 前半で幾度も誕生する芸術の「ヴェール」に触れるなら、後半ではモダンアートを経験した二〇世紀人が自明としてきた絵画的なフレームが、ラスコーによって揺り動かされ、そこから脱出することを求められる。鈴木雅雄が取り上げるように描画が中心の洞窟壁画にとって、マンガはても重要なアプローチとなるはずで、日本からも独創的な研究が生まれるに違いない。 もしラスコーやショーヴェといった洞窟が日本で発見されていたら。わたしはいちど、フランスを代表する先史学者に尋ねてみたことがある。彼はきっと面白い研究が出てきただろうねと笑っていたが、わたしは本書がその始まりではないかと思う。日本の祭りにおける一回性とバタイユの言う至高性が呼応するかもしれないという福島の指摘は、ラスコーが言語と思考を通して、いくつもの言語のなかに、幾度も何度でも始まることを雄弁に語っている。この点で本書は、起源をモチーフに時空を超越する、ユニークな「経験」のポリフォニーと言っていいように思う。(みなと・ちひろ=多摩美術大学美術学部教授・映像人類学)★よしだ・ひろし=早稲田大学名誉教授・フランス文学・日本文学。著書に『バタイユ』など。一九四九年生。★ふくしま・いさお=早稲田大学人間科学学術院教授・フランス文学・映画研究。著書に『バタイユと文学空間』など。一九七〇年生。★よしもと・もとこ=早稲田大学ほか非常勤講師・フランス文学。一九五六年生。★ごうはら・かい=東京大学大学院准教授・フランス文学。著書に『文学のミニマル・イメージ』など。一九七五年生。★すずき・まさお=早稲田大学文学学術院教授・シュルレアリスム研究。著書に『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』。一九六二年生。★にしやま・たつや=早稲田大学文学学術院教授・哲学。訳書にジャン=リュック・ナンシー『訪問』など。一九七六年生。