書評キャンパス―大学生がススメる本―今西在知 / 東京外国語大学伊語専攻4年週刊読書人2021年6月4日号ランスへの帰郷著 者:ディディエ・エリボン出版社:みすず書房ISBN13:978-4-622-08897-4 本書は、最底辺の労働者階級で育った著者ディディエ・エリボンが、絶縁状態であった父の死をきっかけに、自身のアイデンティティを省みる自伝的物語だ。労働者階級から社会的上昇を遂げ、大学教授にまでなった彼の精神遍歴は二重の意味で「痛み」と「恥」を伴うものだった。思春期の頃から次第に自覚するようになった「ゲイ」としてのアイデンティティは、常に社会的暴力に曝された。しかし、彼は後年になって、自身の主体性構築の過程には、もう一つの葛藤が隠れていたことに気づく。労働者階級という自身の文化的出自を、彼は常に隠蔽してきたのだった。サルトルやボーヴォワールに私淑し、その知的憧憬を支えに道を探し求めた青年が、社会階級を越え、自分と異なるブルジョワ的世界に順応することは、自身の出自と過去に対する離反を意味した。 本書の特異性は、このような実存的主題を社会学的分析の枠組みにあえて落とし込む試みにある。ゆえに、自伝が様々な分析概念に分解されているように感ずる読者もあるかもしれないが、自伝的著作でありながら、分析的で冷静な筆致に支えられた、この稀有なポーズにこそ、著者のアイデンティティそのものが表れている。すなわち、「帰郷」という形式性とややもすれば無機質な分析概念なしには、著者の「痛み」と「恥」に縁取られた回想は、書き通されなかったであろう。 著者の精神遍歴上、重要であったボーヴォワールの『回想録』とこのエリボン自身の「帰郷」という「回想録」とを対比させることで本書の通奏低音は捉えられる。 エリボンの若き頃は、彼曰く、「知的世界の大物が崇拝され、若者は彼らと一体化しようとし、彼らの創造的な業績に自分を結びつけることを熱望した。本来の自分自身を知識人のイメージで思い描いた」。こうした空気感のなか、「ボーヴォワールの『回想録』と彼女がそこで述べたすべてに魅せられて、(…)ボーヴォワールの著書と、私の同性愛を自由に生きたいという願望が、私のパリ移住を主導したふたつの大きな理由だった」と回想する。ブルジョア的社会規範に反発しながら、女性としてのあり方を自らが規定するという主体性の契機と、知識人としての道を追い求める知的野心とが綴られるボーヴォワールの若き日々に、エリボン自身の煩悶の日々が自然と重ね合わされたことは容易に想像できる。 しかし、ここで問いが筆者の内に浮かぶ。ボーヴォワールは『回想録』で、自身の出自たるブルジョア世界を語る上で、心理的フィルターを介する欲求に襲われなかったのだろうか? あの娘時代の回想とは、まさに特権的な語りそのものだったのではないか? あの回想に彼女は何らかの精神的代償を求められただろうか? 一方で、エリボンは様々な分析概念というフィルターを用いざるを得なかった。「この種の遮蔽幕なしに『現実』と直面しなくてはならない場合にはおそらく強烈すぎる感情の負荷」が予想されたからだ。この「帰郷」の物語を支える大きなフレームとは、彼の「痛み」と「恥」の表象そのものなのだ。「重要なのは、(…)人びとによって作り上げられたわれわれから出発して、われわれが自分自身をどのような存在に作り上げるかだ」というサルトルの言葉は、若きエリボンにとり、難行苦行の原則、自己に対する自己による実践の原則になった。自己の存在を根底から問い、そこに自らが意味を満たしていくことは苦難そのものだ。しかし、怯懦に心を巣くわせることはあってはならない。筆者は私のような若き人々に本書を薦めたい。それは「帰郷」の物語にはその苦難に対する「答え」が見つかるからではない。むしろ何某かの「問い」をあなた方自身の内から汲み上げさせるような、そのような力がこの物語にはあるからである。(塚原史訳)★いまにし・あるち=東京外国語大学伊語専攻4年。西欧中世史ゼミにて、「ダンテ・アリギエーリの知的形成」という主題で卒論を準備中。また、人文学と並行して、法律学も勉強中。