――一日八時間本を読むだけの仕事を最高と思える人の著書――下楠昌哉 / 同志社大学文学部教授・学生支援機構長・英文学週刊読書人2020年5月15日号(3339号)ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険著 者:コーリー・スタンパー出版社:左右社ISBN13:978-4-86528-256-6「福原が卓球を選んだのではない、卓球が福原を選んだのだ」という福原愛選手を指導した方のコメントを目にしたことがある。この本の著者は、ママそれだけはやめてという愛娘の懇願を振り切って宣う。わたしが辞書人生を選んだのではない「辞書人生が……わたしを選んだのよ」 リアル『舟を編む』英語辞書版という趣で、著者がメリアム・ウェブスター社の求人面接を受けるところから本書は始まる。だがガチンコ実話の本書で著者が手にする小さな幸福を描く場面で、一般読者が著者の幸福感にシンクロするのはかなり難しい。音楽家の配偶者がいらっしゃるようなのだが、本書が扱うのは甘いロマンスではなく、一人前の辞書編纂者になるための厳しいトレーニングの過程と、静まり返った(たまに奇妙な音声が響くようである)職場の狭小なブースでなされる、小さな、それでいて着実に何かを前進させている達成の瞬間なのだ。 アメリカで最も権威ある辞書の一つ、ウェブスター。(ライヴァルである『アメリカン・ヘリテージ英語辞書』とのつばぜり合いは、本書の読みどころの一つだ。)どのような辞書か知りたければ、本書のカバーを取ってみるとよい。一九三四年出版の辞書のページが表紙と裏表紙に複写されており、見事な実例となっている。評者が最初にウェブスターの定番辞書『カレッジ英語辞典』を自腹で購入したのは、一九八〇年代後半の大学入学したての時だった。けれども、大学生協に平積みになっていた、天地や小口が何やら素敵に彩色された赤い表紙のその英英辞典を、評者はほとんど使いこなせなかった。説明が簡潔な百科事典のような印象で、単語の語釈(辞書における単語の意味の説明)は同じような単語を並べ直しているようにしか見えなかった。あれから三十年。本書を読んで、語釈がトートロジー的に見える理由が判明した。英語で飯をくっている読者であればおそらくは、本書を読むことで自らの英語史を振り返って何らかの感慨に浸れることだろう。 読むにあたって注意する点は、本書はウェブスターの辞書が「英英辞典」ではなく「国語辞典」である読者向けに書かれていること。そして、辞書には各出版社が独自に編集や表記のシステムを発展させてきたために、日本で出版されている英和辞典には当てはまらない部分があることだ。その点に関しては本書にならって、各辞書の「前付」を見るようにと言っておく。本書を楽しむにあたっては、英語に関する知識はあればあるほどよい。英語史、英文法、辞書史、綴りの変遷、発音の多様性、印刷機やインターネットなどのテクノロジーの発展と言語の関係。ただしこれらの事項に関しては、粘り強く読めば本書からダイレクトにそうした知識がある程度仕入れられるように書かれている。 複数の訳者による翻訳だが訳文はよくこなれており、むしろ各訳者の微妙な芸風の違いが楽しめるほどである。ただし、英語に関してかなり高度な知識を持つ読者を引きつける本書には、専門的な事項について何らかの指摘がなされることがあるかもしれない。例えば、理論的に構築した語形にアステリスク(*)を付して表すことを考えると、楽しい原注を示すマークは別の印がよかったと思う。 これは、一日八時間本を読むだけの仕事を最高と思える人の著書。それだけに、本の最後の夫への謝辞にグッと来た。(鴻巣友季子、竹内要江、木下眞穂、ラッシャー貴子、手嶋由美子、井口富美子訳)(しもくす・まさや=同志社大学文学部教授・学生支援機構長・英文学) ★コーリー・スタンパー=メリアム・ウェブスター社の辞書編纂者(原書刊行時。二〇一八年三月に退職)。自身のブログ(www.korystamper.com)に言語や辞書学について定期的に投稿、『ガーディアン』紙、『ニューヨーク・タイムズ』紙、「Slate.com.」に執筆。