――新自由主義によって歪められた「自由のあり方」――大原俊一郎 / 亜細亜大学法学部准教授・国際政治史・国際関係論週刊読書人2020年6月12日号(3343号)自由なき世界 上著 者:ティモシー・スナイダー出版社:慶應義塾大学出版会ISBN13:978-4-7664-2665-6本書は、『ブラックアース』『ブラッドランド』などの著作で知られるアメリカの中東欧史の専門家ティモシー・スナイダーの手によるウクライナ危機からトランプ登場にかけてのロシア政治・国際政治に関する著作である。 本書においては、スナイダー独自の概念として、「必然性の政治」と「永遠の政治」との二項対立が展開され、それが本書を貫く分析枠組みとなっている。「必然性の政治」とは、「未来はただ現在の延長にすぎず、進歩の法則は周知のことで、代替の策はなく、よって自分たちになすべきことは何もないと感じること」であるという。これはアメリカの資本主義に基づく自由民主主義、ヨーロッパの統合の物語、また一九九一年までのソ連共産主義を指している。 これに対し、「永遠の政治」とは、「繰り返される受難の物語の中心に一つの国家を据え」、これを唱える政治家は「危機をでっちあげ、その結果生じる感情を操作する」。こうした国民操作のためにでっちあげられるフェイクニュースによって、「寡頭政治(オリガルヒ)」の支配という不平等を温存し、搾取を正当化する。このような「政治の作り話を伝える技術を駆使して国の内外を問わず真実を否定し、生活を見世物や感情の次元に引き下げてしまう」国民操作によって温存される不平等と搾取をスナイダーは「泥棒政治」と呼ぶ。こうした「泥棒政治」の手法は二〇一四年のウクライナ危機の際にいかんなく発揮され、それはアメリカに輸出されることで、トランプの出現を促したという。 また、戦間期における白系ロシアのイデオローグであるイリインが主張した、外国からの物質的・精神的侵略に対置されるロシアの無垢の思想は、現代において、ドゥーギン、プロハーノフなどの「ユーラシア主義」と「新しいロシア・ナショナリズムの知的中枢であるイズボルスク・クラブ」に拡散して、「泥棒政治」の正当化と対外的な攻撃に大きな影響を及ぼし、世界的諸問題の新たな中心点を生み出している、とする。大略ではあるが、これが本書の基本的な内容である。 ところで、本書の叙述は現代史に関する部分がその中心を占めるため、一見その問題提起はきわめてアクチュアルな印象を読者に与える。しかしながら、その反面、二〇一〇年代のロシア政治の問題性を過大評価するために、一九九〇年代、二〇〇〇年代の問題を過小評価する傾向にあり、ポスト冷戦期の歴史的な検証作業としては看過できない歪みがあることは否定できない。 その最たるものは、一九九九年の中欧三ヵ国、二〇〇四年の中東欧七ヵ国へのNATOの東方拡大から、二〇〇八年の南オセチア・アブハジアにおけるロシア軍の軍事行動に至る流れがほとんど看過されていることであろう。ロシアの合意なきNATO東方拡大への批判は、アメリカではケナンやミアシャイマーがこうした主張を展開したため、リアリズムによる批判として受け止められることが多いが、ここでは国際協調の観点からも大きな問題を含んでいることを指摘しておきたい。 というのも、ヨーロッパ的な国際秩序論の観点から見れば、国際政治における大きな現状変更は、少なくとも関係するすべての大国の合意により推し進められるべきというのが、国際協調(大国間協調)の原則である。なぜならば、イデオロギーが異なるなどの理由によって特定の大国を合意の枠組みから排除すると、その特定の大国は現行の国際秩序に大きな不満を持つに至り、力による現状変更を志向し、国際秩序を揺るがすようになる。こうしたプロセスによって国際秩序が動揺し、崩壊することを防ぐ意味から、大きな国際問題の解決には関係するすべての大国を含めた合意形成が不可欠なのである。これに対し、ポスト冷戦期におけるNATOの東方拡大は、ロシアの反対を押し切り、国際協調の原則を踏み破って進められた経緯があり、国際秩序論の上では、二〇〇八年の軍事行動と二〇一四年の軍事行動という二つの修正主義行動は、その反作用と位置づけられる。本書はこうした経緯について、十分に説明しているとは言い難い。 さらに本書では、「寡頭体制を擁護するための泥棒政治」という主張を展開しているが、その論証についても大いに疑問を抱かざるを得ない。本書では、寡頭体制を温存するために泥棒政治を展開していると主張しているが、評者の理解では、ロシアにおいてオリガルヒと呼ばれる寡頭体制の台頭とそれに伴う腐敗の蔓延は、一九九〇年代の急速な「自由化」によるものであり、これを掣肘するために台頭したのが、治安・国防・情報関係者から成るシロヴィキで、プーチンはシロヴィキの利益を代表するものと捉えている。たしかに、シロヴィキは「永遠の政治」を代表しているが、本書のようにオリガルヒを「永遠の政治」の所産とするのは論理が転倒している。 また本書では、寡頭体制に関して、アメリカにも言及があり、ロシアより程度は劣るものの、持てる者と持たざる者の二極化が進んでいるとしている。しかしながら、アメリカの新自由主義的な金融市場が引き起こすバブルによって富の集積が加速度的に増加し、持てる者と持たざる者との格差の拡大に拍車をかけているというアメリカの問題の本質について、本書は積極的に語ろうとしない。むしろ実際には、こうした「自由化」が引き起こす格差の拡大こそが、寡頭体制の培養器であり、厳密には寡頭体制とは「自由なき世界」ではなく、「強者による自由の独占」を指すものではないだろうか。このように見ていくと、ロシア政治の問題性は時代状況に応じた現象あるいは仮象であり、むしろ新自由主義とそれによって歪められた「自由のあり方」こそが現代の諸問題の根底に横たわる本質であるように思われる。 この意味において、本書と好対照を成すものとして検討されるべきは、国際政治の古典とされるE・H・カー『危機の二十年』であろう。カーは、一九世紀後半の進化論による自由競争の激化とそれに伴う自由主義の凶悪化、さらに「強者の利益」は神の手によって調整されるとする利益調和説を批判している。こうした虚構によって構成される自由民主主義的ユートピアニズムが戦間期のアメリカによって再提起され、それが戦間期における秩序崩壊の真の原因となったと指摘したのである。こうしたカーの主張は、一九七〇年代から始まり、一九九〇年代に世界に拡散した新自由主義の問題性と酷似している。一九世紀後半から戦間期にかけての進化論による自由競争の激化と利益調和説は、現代では自己責任論やトリクルダウン仮説に置き換わっている。すなわち、国際社会からも国内社会からも共生を基調とした社会性が欠落していくことで立ち起こる危機は、戦間期と現代に通底するものであり、ここにこそ危機の本質があるのではないだろうか。 NATO東方拡大とオリガルヒ形成の責任という本稿で挙げた二つの論点は、すでに下斗米伸夫氏が指摘しているものの(『日経新聞』二〇二〇年五月二日)、二つの論点は共に国際政治史の大論点と接続しており、従来これらの大論点に照らした掘り下げはなされてこなかったのではないか。評者としては、ロシア政治の問題性を不問に付すつもりは毛頭ないが、これらの大論点に鑑みれば、ロシア政治が世界政治における問題の本質であるとは思われない。ただし、本書の叙述はアメリカ人がロシア陰謀説をいかに論理構成しているのかについての格好のテキストであることは確かであり、その意味において必読の文献であることは間違いないものと思われる。(池田年穂訳)(おおはら・しゅんいちろう=亜細亜大学法学部准教授・国際政治史・国際関係論)★ティモシー・スナイダー=イェール大学歴史学部教授・中東欧史・ホロコースト論・近代ナショナリズム。一九六九年生。