――西側からもたらされたポストモダニズムに着目――高田映介 / 京都大学非常勤講師・ロシア文学週刊読書人2020年5月8日号(3338号)ナショナルな欲望のゆくえ ソ連後のロシア文学を読み解く著 者:松下隆志出版社:共和国ISBN13:978-4-907986-62-9かつて世界を「東」と「西」に二分した共産主義と自由主義の対立は、自由民主主義の圧勝で終わったかのように思われた。ソヴィエト連邦は崩壊し、崩壊に伴う敗北感や喪失感といった精神的混迷の中で、ロシア社会のアイデンティティーは危機にさらされた。 現実の変容は文学のあり方にも大きな影響を与えた。グラースノスチ(情報公開)やペレストロイカ(建て直し)などによる検閲の減少でジャンルやテーマが多様化する一方、社会主義リアリズムの一枚岩が崩れ、旧支配勢力と新興勢力が激しく争った結果、ロシア文学が伝統的に保持してきた社会的重要性は圧倒的に低下した。現代ロシア文学のこうした様相はときにバラバラの「リスト」とも称され、統一的相貌を持たないことが現代ロシア文学の特徴だとする見方も存在する。 これに対し本書は1990年代以降のロシア文学に認められる唯一の「イズム」として、西側からもたらされたポストモダニズムに着目し、その特徴、可能性と限界の分析を通じて多様な現代ロシア文学を連続的に読み解こうとする。幅広い世代の作家と、文学作品だけでなく映像作品をも対象とし、20世紀文化論の諸概念を豊富に用いて展開される思考は複雑だが明快であり、読みごたえがある。 たとえば第六章では、現代ロシアの戦争文学・映画における「アイロニー」の観点から、ロシア・ポストモダニズムが退潮していくプロセスが示される。著者はまず、古典的なロシア文学における重要なモチーフとしてコーカサス地域が存在したこと、作家たちはコーカサスをめぐるアイロニーによって「現実」と「虚構」の差異にアプローチしたことを述べる。90-00年代には第一次・第二次チェチェン戦争を扱った作品でこうした古典的なコーカサス表象に対するアイロニカルな改変が作用したのだが、アイロニーに対するアイロニーの際限なき連鎖はいつしか「現実」の不在とも言うべき事態を生み出し、バラバーノフ監督の『チェチェン・ウォー』(2002)では客観的で唯一の「現実」を放棄するというポストモダン的な極限に至ることが指摘される。だがそのわずか数年後、00年代半ばに個人的体験に基づいて戦争を描いた若手作家たちは、アイロニーの条件であった既存の枠組みとしての「コーカサス」や「チェチェン」を用いて「現実」を語り、意味づけることの不可能性を強調した。不条理な「現実」に対する「物語」の不在はそれを求める渇望の裏返しでもあり、のちに彼らはポストモダニズムが否定したはずの「大きな物語」、この場合はソ連という過去の「物語」へと回帰していくのである。 特筆すべきは、著者が西欧とは政治的・社会的に異なる条件に生じたロシアのポストモダニズムを一意的に捉えるのではなく、西欧的ポストモダニズムへの「擬態」によりロシアが自国の文化的危機を乗り越えようとした積極的面と、他国世界の「ネガ」としてしか自国を語り得ないロシアの体質が露呈した消極的面、双方を見据えることで世紀を越えて現代ロシア文学の流れを描き出す点だ。90年代のロシア・ポストモダニズム言説が密かに抱いていた、欧米文化に対するロシア文化の優越性を主張しようとする「ナショナルな欲望」は、保守的な00年代の文学にも引き継がれ、肥大化していったことが示され、現代ロシア文学の一つの「物語」が浮かび上がるのである。 著者はこうした欲望の解体が現代ロシア文学の展望であり課題であることを示すと同時に、2010年代のロシア文学にはすでに停滞感が見られたことにも触れ、この先文学は衰退の道を歩むのか、それともどこかで巻き返すのか、という問いを最後に投げかけている。ロシア文学の現在進行形のプロセスに立ち会うことの知的興奮を味あわせてくれる本書は、画期的な現代ロシア文学論であるだけでなく、現実とフィクションの境がますます失われていく今日にあって、文学の想像力に期待を寄せるすべての読者が手に取るべき一冊だ。(たかだ・えいすけ=京都大学非常勤講師・ロシア文学) ★まつした・たかし=北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター研究員・現代ロシア文学。訳書に、ザミャーチン『われら』ウラジーミル・ソローキン『テルリア』『親衛隊士の日』、同『青い脂』(共訳)など。一九八四年生。