――自分と家族の記憶を史資料によって歴史化――三浦信孝 / 中央大学名誉教授・現代フランス研究・政治思想週刊読書人2021年8月27日号ヴィシーの教訓著 者:ピエール・ビルンボーム出版社:吉田書店ISBN13:978-4-905497-94-3 ピエール・ビルンボームの『共和国と豚』(村上祐二訳、二〇二〇年)に続いて『ヴィシーの教訓』が大嶋厚という最適の訳者を得て今年六月、同じ吉田書店から刊行された。著者は一九四〇年カトリックの聖地ルルドに生まれ、フランスの「共和国の学校」で育ち、パリ政治学院と法学部に学んだが、国立行政学院には進まず、レイモン・アロンの指導のもとに政治社会学者になり、『トクヴィルの社会学』を出した一九七〇年からソルボンヌ大学とパリ政治学院で教鞭をとった。その比較国家論・権力構造論は、一九七七年の共著『現代フランスの権力エリート』(田口富久治監訳、一九八八年)と一九八二年の『国家の歴史社会学』(小山勉訳、一九九〇年)によって日本にも紹介されていたが、私がその存在を知ったのは、ピエール・ノラの依頼で書かれた論文「ユダヤ人――グレゴワール、ドレフュス、ドランシー、コペルニック街」(加藤克夫訳、『記憶の場1 〈対立〉』二〇〇二年)によってである。 サブタイトルにあるグレゴワールは大革命期に奴隷制廃止とユダヤ人解放に貢献したジャコバン派の宣誓司祭、ドレフュスは理工科学校(エコール・ポリテクニック)出身のユダヤ人陸軍大尉で一九世紀末に高まった対独復讐の国家主義によるスパイ冤罪事件の主人公、ドランシーはナチス占領下でヴィシー政府が国内七万人のユダヤ人を逮捕し鉄路でアウシュヴィッツに送り出したパリ郊外の中継収容所、コペルニック街は一九八〇年一〇月にイスラエリット自由連合のシナゴーグを狙った爆弾テロ事件である。「強い国家」と「国家ユダヤ人」 本書によれば、この論文が執筆されたのと同じ一九九二年にビルンボームは『共和国狂――「国家ユダヤ人」の政治史』を上梓しており、一九八八年の『ある政治神話、「ユダヤ共和国」』を節目に、研究の軸足を国家の歴史社会学からフランス独特の政治的反ユダヤ主義の解明に移している。ここで「共和国狂」とは「共和制国家に絶対的な信頼を寄せた熱狂的なユダヤ人たち」のことであり、「国家ユダヤ人(juifs d’état)」とは、近世のドイツ諸邦で宮廷お抱えの金融業者として特権的地位にあった「宮廷ユダヤ人(juifs de cour)」との対比でつくられた造語である。大革命で市民権を与えられフランスに同化したユダヤ人は、第三共和政期になると、メリトクラシーによって高級官僚、政治家、軍人として国家機関の中枢に進出する。「国家ユダヤ人」とは共和国の普遍主義的価値と一体化して国家に奉仕するユダヤ人の公僕を指し、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリユール)に学んで国務院(コンセーユ・デタ)に入り、ドレフュス事件を契機にジャン・ジョレスの社会党に参加、一九三六年の人民戦線内閣の首相になったレオン・ブルムはその代表である。ブルムは反共和主義右翼の憎悪の的になり、ヴィシー政府が成立すると逮捕され、ドイツの強制収容所に抑留される。 トクヴィル研究者によって翻訳されていた『国家の歴史社会学』は中野裕二による再訂訳版として二〇一五年に吉田書店から刊行されたが、改訂版には原著者による補論「説明変数としての国家類型」が付されており、ビルンボームはそこで、グローバル経済の中で「国家の退場」が議論される「今日もなお国家の比較歴史社会学は実り多い」として、米仏のユダヤ人統合原理の違いを次のように説明する。アメリカではユダヤ人が「国民のなかの一つの民族(une nation dans la nation)と見なされ、「諸民族からなる国民」のなかにその居場所を見つけていたのに対し、フランスのユダヤ人解放原理はクレルモン=トネールの一七八九年の演説に要約される。「民族(nation)としてのユダヤ人にはすべてを拒絶し、個人としてのユダヤ人にはすべてを認めるべきである。ユダヤ人は個人として市民であるべきで、国民のなかに一つの民族が存在することがあってはならない。」この宣言は、旧制度における中間団体を排除した「単一不可分の共和国」フランスの集権的「強い国家」と連邦共和国アメリカの多元主義的「弱い国家」の比較論の原点である。一九七〇年代から多民族国家アメリカで生まれた「多文化主義」は、現代フランスでは「単一不可分の国民」を分裂させる「共同体主義(コミュノタリスム)」として忌避される。 クレルモン=トネールの宣言は、二〇一二年の仏大統領選でイスラム教徒の「ハラール」とユダヤ教徒の「カシェール」を標的にした食肉論争に触発されて書かれた『共和国と豚』にも引用されている。「ヴォルテールから第三共和政を経てヴィシー政権にいたるまで、あるいはモーゼス・メンデルスゾーン、ミラボー、クレルモン=トネール伯爵からエドゥアール・ドリュモンとその追随者にいたるまで、時代は変われど軽視されがちだった」豚食の問題を切り口に、世俗化されたとはいえカトリックの伝統が強いフランスで、共和国市民になるには宴席で先祖代々の禁を破って豚肉を食べなければならないユダヤ人のアイデンティティの相克を分析した目から鱗の本である。「フランス国」という「反ユダヤ主義国家」『ヴィシーの教訓』は、一九四〇年七月一九日、ヴィシー政権成立の直後に生まれた著者が、ピレネーの麓オメックス村の農家に預けられ、二歳上の姉とともに「匿われた子供」として過ごした幼少期の「最初の情景」で始まる。東欧のアシュケナジム系ユダヤ人の両親は、一九三三年にドレスデンで結婚するがヒトラーが政権をとるとベルギー経由でパリに移住し、さらに一九四〇年六月ドイツ軍がパリに入城すると幼い娘を連れて南西部に逃れ、カトリックの巡礼地ルルドで汽車を降り、そこで生まれた男の子にピエールの名をつける。両親は外国籍だが、息子には申請によりフランス国籍を獲得し、密かに割礼をほどこす。 しかしこの本は、自分史を語ることに禁欲的だった学者が自分のユダヤ起源を初めて公にしたナルシシックな自伝ではない。ルルド周辺は非占領地域だったが、「フランス国(État français)」の官憲によって追跡され、名もない「正義の人」によって救われた自分と家族の記憶を、高ピレネー県とパリと警察庁の公文書館で発掘した史資料によって歴史化し、自分の研究史の中で無意識のうちに封印してきた「ヴィシーのフランス」に微視的とはいえ正面から向き合った批判的歴史書である。 共和国の「自由・平等・友愛」に代えて「労働・家族・祖国」を標語に「国民革命」を掲げるヴィシー政府は、一九四〇年七月に成立すると帰化ユダヤ人の国籍を無効にし、一〇月三日にユダヤ人身分法を制定してユダヤ人を公職から追放し、翌四一年にはユダヤ人の一斉検挙に乗り出す。「一九四二年末までに、フランス全土で四万二〇〇〇人が逮捕され、移送された。その中には、ヴェルディブ(冬季競輪場)一斉検挙事件の際に見られたように、無国籍ユダヤ人を親とする、フランス国籍を持つ子供たちが何千人も含まれていた。」ヴィシー政府の反ユダヤ人政策を立案し実行したのは「フランス国」の高級官僚団だが、そのことを指摘したアメリカの歴史家ロバート・パクストンの『ヴィシー時代のフランス』(仏訳一九七三年/剣持久木 ・渡辺和行訳、二〇〇四年)の衝撃にもかかわらず、共和制国家に奉仕する「上級公務員の共和国」を理想化していたビルンボームはヴィシー期を等閑に付しつづけ、本書を書く機が熟すまでに二五年を要したという。 本書執筆の二五年前とは一九九三年である。ヴィシー期の「匿われた子供」のトラウマを研究するアメリカの女性心理学者からロングインタビューを受け、その著『黄色い星をつけた子供たち』を送られたが、前年に『共和国狂』を出していたビルンボームはその本を読もうとしなかったという。ユダヤ人であることを隠して「偽りの自己」を演じ、「小さな声で話すんだよ、どこにでもドイツ人がいるから」と言われて育った著者は、ピエール・ビリーという変名で呼ばれた時だけ返事する「沈黙する子供」だった。フランス解放後の一九四九年にようやく帰化が認められた両親も、ヴィシー期の過酷な経験と近親を失ったホロコーストについては口を噤んで話さなかった。 そのビルンボームが初めて「完璧に中立的な教授の衣装を脱ぎ捨て」、公にヴィシー政府の反ユダヤ政策を問題にする文章を発表したのは、一九九四年一〇月二一日付「ル・モンド」紙の記事である。一九四二年にヴィシー政府に奉職し、ユダヤ人狩りを指揮した警察長官ルネ・ブスケと交友があったにもかかわらず、ヴィシー政府の「反ユダヤ法」について何も知らなかったと語った共和国大統領フランソワ・ミッテランを批判した記事である。本書第四章は一九四二年六月一六日のヴェルディブ事件をフランスの国家が犯した犯罪として初めて公式に認めた一九九五年の記念日のジャック・シラク演説を中心に、マクロンにいたる第五共和政の歴代大統領のヴィシー期に関する公的発言を批判的に分析している。(大嶋厚訳)(みうら・のぶたか=中央大学名誉教授・現代フランス研究・政治思想)★ピエール・ビルンボーム=パリ第一大学名誉教授・政治社会学。パリ政治学院やニューヨーク大、コロンビア大学でも教鞭をとった。一九四〇年生。