――読者をも試す、タブーに挑戦した一冊――武田徹 / 評論家・ジャーナリスト・専修大学文学部教授・メディア社会学・近現代社会史週刊読書人2020年7月17日号(3348号)ソドム バチカン教皇庁最大の秘密著 者:フレデリック・マルテル出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-24956-8これは読者を試す本だと思った。 カトリック総本山バチカンの高位聖職者の大半が同性愛者であること――。それを取材によって明らかにした内容だと聞けば、多くの人がタブーに挑戦したヤバい一冊だと思うのではないか。 たとえば冷戦末期に世界平和と戦争反対を呼びかけ、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを手始めに世界各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たし、英雄視されていたヨハネ・パウロ二世の時代にこそバチカンに同性愛による「色欲の環」が広がった等々驚くべき事実が暴露されている。 だが、誤解すべきではない。問題は同性愛それ自体ではない。著者は自身が同性愛者であることを公開している、いわゆるオープンゲイであり、同性愛を否定する内容を書くはずがない。では四年間をかけて一五〇〇人を超える神父や司教、枢機卿への聞き取り調査を実施した労作(邦訳で約七五〇頁に及ぶ)で何を告発しようとしているのか。 ローマ・カトリック教会において同性愛は「罪」だった。ヨハネ・パウロ二世はトレント公会議以来、約四百年ぶりにカトリックの「教義要覧」を公表しているが、そこでは、人間が男女という二つの異なった性を持つ存在として造られたのは神が望んだからであり、男女は結婚し、夫婦の性の交わりを通して神の創造の一部に人間を参加させるものだという考え方が踏襲されている。創造行為ではない性行為が忌避され、避妊や妊娠中絶に反対するカトリックの姿勢はそうした考え方を踏まえており、バチカンの公式思想、いわゆる「カテキズム」で同性愛が禁忌とされるのは当然だった。なにしろ生産性がないし、男女ペアでもない。だからこそヨハネ・パウロ二世は世界の民主化活動に支援のメッセージを寄せるのと同時に同性愛を強く否定するメッセージも発し続けたのだ。 こうして同性愛と戦おうとしていたバチカンが、実は同性愛の「メッカ」となる逆説はいかにしてもたらされたのか。著者はそこに働く「社会的選択」のメカニズムを提示する。カトリックでは一般信徒には次世代の創造につながる限りでの男女の性愛を認めたが、聖職者には禁欲を求めた。そのため聖衣を着る選択は世俗の異性愛から離れる意志の表明とみなされた。それが異性愛を受け入れられない男性にとって救済となる。聖職者になればガールフレンドがいるかどうか聞かれることはなくなるからだ。 結果的に聖職者の世界では同性愛者が多くなるが、その比率は教皇庁の中枢に近づけば近づくほど高くなる。同性愛の枢機卿が自らと同じ指向をもつ聖職者を優遇して重用した結果、対外的には同性愛を排撃する闘士である高位聖職者の大半が実は同性愛者であるというねじれた構図が作られる。 もちろんカトリック信仰において同性愛は禁忌である以上、聖光をまとった同性愛者の存在は隠蔽されなければならない。そこでバチカンの仲間入りをするには秘密厳守の掟、著者が「クローゼットのコード」と呼ぶしきたりを守ることが求められる。本書で告発されているのはこうした秘密厳守のヴェールの中で行われている数々の不祥事や権力関係を利用した性的虐待行為だ。そしてコンドームの使用を断固として許さなかった結果、エイズの蔓延を許し、多くの犠牲者を出したバチカンの姿勢に対しては特に著者は怒りをあらわにする。 異性愛を含め、すべてがオープンになるべきだと著者は考えている。そうすればバチカンの高位聖職者が同性愛者でありつつ、それを隠して同性愛撲滅の戦士然と振る舞う「二重生活」を強いられることもなくなるし、性犯罪や性的虐待の犠牲者も減るだろう、と。 ただその理想を実現するためには社会がカミングアウトする同性愛者の勇気を評価し、受け入れる必要がある。であれば敵はバチカンの欺瞞だけでなく、わたしたちの日常的な差別意識でもあるのだ。次世代の創造を重視するのはカトリックだけではない。子を産む「生産性」のみで人を価値づけ、同性愛者を差別しようとした某女性国会議員と同じような価値観が自らの内に潜んでいないか、本書は読み手をも試すバロメーターにもなるのだろう。(吉田春美訳)(たけだ・とおる=評論家・ジャーナリスト・専修大学文学部教授・メディア社会学・近現代社会史) ★フレデリック・マルテル=フランス在住の作家、ジャーナリスト、社会学者で、「オープンなゲイ」である。著書に『超大国アメリカの文化力』『メインストリーム』『現地レポート 世界LGBT事情 変わりつつある人権と文化の地政学』など。一九六七年生。