――貴族文化と民衆文化の双方に目配りした啓蒙的通史――小谷野敦 / 作家・比較文学者週刊読書人2021年10月22日号ナターシャの踊り 上 ロシア文化史著 者:オーランドー・ファイジズ出版社:白水社ISBN13:978-4-560-09839-4 本書の表題は、トルストイの『戦争と平和』で伯爵令嬢のナターシャが農民の踊りを踊るところからつけられている。わたしはこの表題から、大河ドラマ『太平記』で、戦に敗れた楠木正成が旅芸人の一座に紛れ込んでいるのを、鎌倉方の足利高氏が見つけるが、野卑な踊りを踊らせてわざと逃し、「わしにもあのくらいは踊れる」と言う場面を思い出した。この題名は、一七〇〇年から二五〇年のロシヤ文化史を叙述する大著である本書が、ロシヤ文化の中の貴族文化と民衆文化の双方に目配りすることを示している。 著者はロンドン大学教授の文化史学者で、ロシヤが専門なわけではない。私は本書を読んでいて、知らないことがあまり書いていないことに驚いたのだが、というのは私の専門が比較文学で、日本の近代文化は、かなり圧倒的にロシヤ文化の影響を受けているためだからである。たとえば、ロシヤ貴族の間では幼年時代の思い出は輝かしいものである、といえば、中勘助の『銀の匙』が、知識人へのアンケートで岩波文庫の一位になった時、なんと岩波文庫の読者というのはブルジョワ出身なのだろう、と思ったことを思い出すし、その幼年時代においては乳母が聖化されていた、とあれば、夏目漱石の『坊つちやん』や太宰治の『津軽』を思い出すし、トルストイの『復活』における、貴族の若者が女中と過ちを犯す話は、実際にそういう経験があった志賀直哉や、里見弴といった裕福な家の坊っちゃんに激しいショックを与えている。 本書の構成は「ヨーロピアン・ロシア」「一八一二年の申し子たち」「モスクワへ! モスクワへ!」「農民の婚礼」「ロシアの魂を求めて」「チンギス・ハンの末裔たち」「ソヴィエトのレンズを通して見たロシア」「在外ロシア」から成っている。エピソードを中心とした、特に分析にこだわらない啓蒙的通史である。中に「キティとリョーヴィン」という章があり、『アンナ・カレーニナ』で脇役と見られているキティとリョーヴィンの結婚を、トルストイ自身の結婚をもとにしたものとして詳しく描かれているが、実に『アンナ・カレーニナ』においてアンナとヴロンスキーの不倫などは単なる通俗的な外形であって、実際の主人公はキティとリョーヴィンであろうと思っている私には、膝を打つばかりの著者の着眼であった。 チェーホフに関する部分も面白かった。私は『桜の園』を観ても、貴族階級没落してザマア見ろ! としか思わず、ロパーヒン万歳、と思ってしまうのだが、実際はチェーホフの意図はそちらのほうにあったが、演出家が貴族階級の悲哀を描いた劇のように上演してしまったという。日本でも結局はラネーフスカヤ夫人が同情すべき人として描かれてきたが、本来の意図がそうでないことは「喜劇」という指定にも表れているのだが、チェーホフ本来の意図がはっきりしないまま今日まで流通しているというのが実情だろう。 ちょっとした間違いもあり、「私たちはみな、ゴーゴリの『外套』から出てきた」という有名な言葉を、ドストエフスキーのものとしているが、訳者が注をつけて、「フランスの外交官ヴォギュエの言葉」としているが、これも正確ではなく、ヴォギュエの著書に、ロシヤ文学に精通した人の言葉として書いてあるという。だが私はこの「『外套』発言」自体、当を得ているとも思えないし、もう廃棄したほうがいいのじゃないかと思う。 一七七四年に、露土戦争の講和条約として結ばれたキュチュク・カイナルジ条約まで、クリミア半島周辺はモンゴルの末裔たるクリミア・ハン国が、オスマン帝国の従属国として存在していた。本書はモンゴルについてはともかく、ロシヤに対するオスマン帝国の影響についてあまり書いていない感じがする。音楽については、私は常々ロシヤの音楽はなぜああもすばらしいのだろうと思っているが、本書はちょっと、バルトークなどの東欧の作曲家の影響について書いていないんじゃないかと思った。どうしても二十世紀になると、革命とストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチが中心になってしまうが、プロコフィエフのような、私が全クラシック音楽の歴史の上で最も素晴らしいんじゃないかと思える作曲家が現れた理由が今一つ明らかにはならなかったのは、やむをえないことかもしれない。一つ残念なのは、民衆史から始まる著作ながら、日本でもよく知られる「赤いサラファン」「泉のほとり」などのロシヤ民謡についての記述がなかったことで、もしかしてこれらは本国では有名ではないのだろうか。革命後のロシヤについては、亡命作家ナボコフの、むしろ批評家としての発言が光って見える。パステルナークはソ連作家から忌避されたため同情されたが、実はただのブルジョワ的通俗作家だったのではないかという気が私はしていて、ナボコフもそう思っていたんじゃないかと思う。 しかし本書は、中に出て来る文学や音楽を半分くらいは知らないと通読はきついだろう。中級読者向けの、再勉強用の著作としていいだろう。(鳥山祐介・巽由樹子・中野幸男訳)(こやの・あつし=作家・比較文学者)★オーランドー・ファイジズ=ロシア史研究者・ロンドン大学バークベック・カレッジ教授。著書に『囁きと密告 スターリン時代の家族の歴史』『クリミア戦争』など。一九五九年生。