――司馬遼太郎『国盗り物語』から半世紀――小谷野敦 / 作家・比較文学者週刊読書人2020年4月10日号(3335号)斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず著 者:木下聡出版社:ミネルヴァ書房ISBN13:978-4-623-08808-9京都・山崎で油売りをしていた松波庄九郎が、美濃へ赴いて守護・土岐頼芸に取り入り、西村勘九郎から長井、斎藤道三となって美濃を乗っ取り、娘婿としたのが織田信長であったという、司馬遼太郎の『国盗り物語』で、現代人は斎藤道三を知っている。だが司馬の原作が出た一九六六年には、六角承禎書簡によって、京都から来たのは道三の父であり、親子二代で美濃を乗っ取ったことが分かっており、『国盗り物語』が大河ドラマとして放送された一九七三年には、「岐阜県史」資料編でその文書も公開されていた。しかし、この「二人道三」のことは、司馬に遠慮でもしたのか広く報道されることはなく、私など今世紀になって知り、論文を探したのだが見つからなかったということがあった。実は郷土史家の横山住雄が『斎藤道三』で記述していたのだが、濃尾歴史研究所から出たもので一般書ではなかった。やむなく私は宮本昌孝の小説『ふたり道三』を読んで渇を癒した。 今年、明智光秀を主人公にした大河ドラマが放送され、あわせて出たと思われるのが、木下聡の『斎藤氏四代』だが、「二人道三」については二〇一五年に前記横山が『斎藤道三と義龍・龍興』を戎光祥出版から刊行しており、いずれにせよようやく二人道三について普通に読める環境になったわけで、その間半世紀近くかかっているのには驚く。 「一人道三」説は徳川時代の小説に始まるもので、坂口安吾が「梟雄」に書き、ついで司馬が書いたものらしい。深芳野という女性も、その徳川時代に創作されたもので、父を殺した斎藤義龍が、実は土岐頼芸の子であったから、という説明のために作られたものだと木下は言うが、横山は深芳野を実在したとみて、稲葉一鉄の妹とする一方、義龍は道三の実子だとしている。道三正室と言われていた小見の方は明智氏の出身で、光秀はその従弟などに当るとされていたが、横山・木下とも、光秀との親類説には否定的だが、大河ドラマではこの説である。 道三と義龍の対立は道三が弟の孫四郎・喜平次らをかわいがり、義龍が家督に不安を感じたかららしく、道三は実の長男に討たれてしまう。義龍は父殺しとして「范可(はんか)」と名乗ったとしている。あたかも諱(いみな)を変えたような記述だが、このような諱があるのか、号ではないのか、と私は疑念を抱いたが、そのあたりは木下・横山両者とも記述がない。義龍はその後、一色の姓を名乗り、義龍は一色姓の時の名なので、斎藤義龍と名乗ったことはないという。義龍の弟に、本能寺の変の時岐阜城を宰領した斎藤利治がおり、その妹の孫に連歌師の斎藤徳元がいるとされている。私は以前この斎藤徳元を中心に織田秀信を描いたことがあるが、安藤武彦『斎藤徳元研究』では、秀信が岐阜城主の時、すでに廃城となっていたはずの墨俣城主を徳元がしていたとあるなど、史実とは思えないので、これらも歴史学者に整理してもらいたいと思った。 四代目の龍興については、無能な「バカ殿」とするのがかつての通説だったが、実際にはそれほどではなく、戦後になって信長の評価がどんどん高くなり、それに応じて龍興がバカ殿扱いされ、また稲葉山城を乗っ取った家臣の竹中半兵衛について、通説では龍興を諫めるためで、そのためすぐ返したとされているが、実際は世間をあっと言わせたいという思いからではないかと木下はしている。横山は従来通りの説である。両者ともこれを永禄七年のこととし、信長による稲葉山城落城は永禄十年とする。 しかし横山・木下ともに、かつて言われていた義龍のハンセン病について、否定するならするでいいが、言及がないのは気になった。木下は、子供のころに『国盗り物語』の翻案らしい漫画で斎藤道三を知ったとあとがきに書いているが、これはカゴ直利が学研から出した五巻もののことだろう。私などこの漫画から歴史に入門した。 それにしても、横山・木下両氏のものがかなりかぶった内容になっているのは、後発の木下も書きづらかったろうが、伝記系一般向け歴史書ではありがちなことで、最近古関裕而の伝記本が三冊くらい続けて出ているが、世間での話題上仕方ないこととはいえ、どうにかならないものか、と思わざるをえない。(こやの・あつし=作家・比較文学者) ★きのした・さとし=東京大学大学院助教・日本中世史。著書に『中世武家官位の研究』など。一九七六年生。