――「世界中の誰とも握手をしない」道を選んだ男の劇世界――中野正昭 / 明治大学文学部兼任講師・日本近現代演劇・演劇世相史・大衆文化論週刊読書人2020年10月2日号清水邦夫の華麗なる劇世界著 者:井上理惠出版社:社会評論社ISBN13:978-4-7845-1150-1 劇作家の清水邦夫について初の評論の登場だ。 清水邦夫は、一九五八年、早稲田大学の学生だった時に応募した処女戯曲『署名人』で早稲田大学演劇賞を受賞、六八年、蜷川幸雄らと劇団「現代人劇場」(のち櫻社)を結成、アートシアター新宿文化を拠点に清水戯曲・蜷川演出で多くの話題作を発表した。それまで売れない俳優だった蜷川幸雄を演出家に転じさせたのが清水邦夫だ。なかでも六九年の『真情あふるる軽薄さ』は、クライマックスで機動隊が突入してきて客席を取り囲むという奇抜なアイデアによって、学生運動の情熱と挫折を見事に表現し、伝説的な舞台となった。七四年には『ぼくらが非情の大河をくだるとき』で岸田國士戯曲賞受賞(つかこうへい『熱海殺人事件』とのダブル受賞)。映画好きには、田原総一朗との共同監督・脚本『あらかじめ失われた恋人たちよ』、田辺泰志との共同脚本『竜馬暗殺』等のATGのイメージもあるだろう。 蜷川たちと別れてからも、七六年に妻の松本典子らと演劇企画集団「木冬社」を結成して精力的な活動を展開、また劇団民藝の宇野重吉と組んで『エレジー 父の夢は舞う』等の話題作を発表した。アートシアター新宿文化時代のイメージを見事に払拭してみせる。九四年から二〇〇七にかけては多摩美術大学造形表現学部の教授として、学生の指導も手掛けている。受賞も多く、テアトロ演劇賞、紀伊國屋演劇賞などの演劇賞だけでなく、泉鏡花賞、読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章も受けている。現代の劇作家の中で間違いなく高く評価される一人で、『楽屋』など代表作は今でも様々な劇団が再演している。 清水関連書としては単独の戯曲の他に『清水邦夫全仕事』(河出書房新社、一九九二年~)が現在五巻まで刊行され、ハヤカワ演劇文庫にも代表作が収められている。古くはアンソロジー『清水邦夫の世界』(白水社、一九八二年)もある。しかし、不思議と清水邦夫を正面から論じたものはなく、単独の清水邦夫研究書としては今回が初めてで、待望の一冊となる。 本書の特徴は、清水と蜷川の関係にはふれつつも、作品としては蜷川らとの劇団を解散させた後を中心に取り上げているところだ。蜷川幸雄というフィルターから解放された、一演劇人としての清水邦夫が論じられている。『真情~』『ぼくらが~』等の作品名にも表れているように、清水の戯曲は詩的なことば、セリフの美しさに魅力がある。著者によれば、清水の戯曲は、ある特定の時代背景を忍ばせた「劇構成としてはリアリズム演劇の体裁」を取っているが、実は「綺麗な伏線」や「必然性」といった作劇術を拒絶した「「我が存在の行方はどうなるのか」という形而上学的なドラマ」が本質で、「第一作以来、一貫して人間と社会の不条理、人間の関係性における不条理を追及していた」という。詩的なセリフの対話が、一見すると現実的な設定や日常的な物語を通じて、象徴的な世界とテーマの深淵へと観客を誘うのである。 確かに清水作品はその詩的な美しさとは裏腹に、扱われるテーマは実に重く息苦しく、物語は出口が見えない。筆者も観終わった後に何とも言えない疲労感を味わったことが何度かある。しかし、それでも再演があると足を運んでしまうほどに、清水のことばには奇妙な中毒性がある。 著者は、清水邦夫が不条理をどこまでも「ことば」によって表現する決意を固めた背後には、蜷川との別れがあったとしている。蜷川は仲間たちと小劇場に立て籠もることを止め、東宝という商業演劇の演出家となり、さらに〝世界のニナガワ〟へと「華麗なる転身」を遂げた。一方の清水は、『昨日はもっと美しかった』のセリフを借りれば、「世界中の誰とも握手をしない」道を選んだ。その孤独の深さに、清水邦夫の華麗なる劇世界が展開されていったということだろう。 本書は全体の約半分が、世田ヶ谷文学館と多摩美術大学が開催した「清水邦夫の劇世界を探る」全六回(二〇一一~一六)の講演原稿であるため、清水邦夫入門といった赴きが強く、内容的に読み足りないところがあるのが残念だ。個々の作品を掘り下げた本格的な論考を求めたいところだが、それが出来なかった理由はあとがきに書いてある。あとがきでは『幸福論』で知られるアランと清水邦夫の類似が示唆されているが、この指摘は実に興味深い。次回はこの続きを読んでみたいと思う。(なかの・まさあき=明治大学文学部兼任講師・日本近現代演劇・演劇世相史・大衆文化論)★いのうえ・よしえ=桐朋学園芸術短期大学特別招聘教授・演劇学・演劇史・戯曲論。著書に『近代演劇の扉をあけるドラマトゥルギーの社会学』『ドラマ解読 映画・テレビ・演劇批評』『菊田一夫の仕事 浅草・日比谷・宝塚』など。