――語られ、改変されながら伝えられる「本」の可能性――南陀楼綾繁 / 編集者・ライター週刊読書人2020年9月11日号「本読み」の民俗誌 交叉する文字と語り著 者:川島秀一出版社:勉誠出版ISBN13:978-4-585-23081-6 民俗学の研究書である本書を筆者が手に取ったのは、まず著者が川島秀一氏であるからだ。川島氏は気仙沼生まれで、三陸沿岸の漁業にまつわる民俗を研究している。東日本大震災の経験から書かれた『津波のまちに生きて』(冨山房インターナショナル)は何度も読み返した。 もうひとつの理由は、「本読み」という言葉に魅かれたからだ。 気仙沼地方において「それは、『読書』という行為を指しながら、同時に『読書をする人』をも指し、とくに『読書をする人』の場合は『本の読みかたが上手な人』、つまりは『本を音読して聞かせる人』として扱われることが多い」という。 著者によれば、人としての「本読み」は、門付(かどづ)けの本読み、家庭の本読み、ムラの本読みに分けられる。 ムラの外からやって来る門付けは、集まった人に向けて持参した本を音読するだけでなく、逗留した家にある本も読んだ。また、内容を暗記して「空読み」する者もいた。 家庭の本読みは、自分で本を読む際に音読し、家族に対しても読んで聞かせた。この範囲が広がるとムラの本読みとして、行事や講の時に村人に本を読む役割をつとめる。単調で時間のかかる作業においては、本読みの語る話がいわばBGMになっている。 彼らは、学校で習うような朗読ではなく、「人物に成り切ったような読み方」をした。そこには奥浄瑠璃やデロレン祭文、講談などの芸能からの影響があると著者は指摘する。 本読みが読む「本」は、彼ら自身やその縁者が書き写して作成した書き本(写本)が多かった。「歌津敵討ち」「女川(おながわ)口説」などは、それぞれ十数種のテクストが存在している。本から本を生み出す行為を、著者は「書承」と呼ぶ。 「写本を作成する者の内側に生じる能動的な『語り』の要請や、あるいは過去の『語り』の受動的な記憶を通して意識的に『本』を作成する場合などによって、テクストは少しずつ改変していくのである」 他にも、文書の中に「鮭の大助」という伝説を入れ込むことで猟場を認めさせたり、広島県の家船漁師(船に住いながら漁を行う)が「浮鯛抄」という巻物を持ち歩いて、自分たちの漁業権の正当性を主張したりという例を紹介している。 また、「本」は個人に所有されるだけのものではなかった。文字が読めなかったある老人は、「入谷中を歩きながら、講談などの『小説』を持っている家からそれらを借りてきては、今度はそれを声を出して読んでくれる人(『小説読み』)のところへ持っていって聞いて楽しむことをしていた」という。 ここまで挙げただけでも、いまの「本」や「読書」とはかなり異なることが判るだろう。「本」は共有され、語られ、改変されながら伝えられるものであったのだ。 「はじめに」にあるように、従来の民俗学では「耳で聴き、口で語り伝えるという」口承が重んじられ、「本」を経由した書承は継子扱いされてきた。しかし、本書は「書承と口承とが必ずしも対立するばかりでなかった伝承の世界」を浮かび上がらせてくれる。その世界には、豊かなリテラシーが息づいていた。 本書は、「本」や「読書」の可能性、文字と聲の関係などを考えるうえでさまざまな示唆を与えてくれる。民俗学に関心のなかった人にも読んでほしい。 大量に流通した版本に比べ、写本はその希少性から大事に保存された。しかし、東日本大震災の津波によって、図書館や個人の家にあったそれらの写本は流失してしまった。 口承にしても、本にしても、なくなってしまう可能性はつねにある。それを押しとどめるのは、残そうとする人の意志なのだと思う。(なんだろう・あやしげ=編集者・ライター)★かわしま・しゅういち=東北大学災害科学国際研究所シニア研究員・民俗学。著書に『漁撈伝承』『憑霊の民俗』『海と生きる作法』など。一九五二年生。