――どの作家とも交換不可能な個性を帯びて――土佐有明 / ライター週刊読書人2020年5月22日号(3340号)木になった亜沙著 者:今村夏子出版社:文藝春秋ISBN13:978-4-16-391191-5今村夏子の小説を読むと、彼女が『こちらあみ子』で三島由紀夫賞を受賞した際の記者会見を思い出す。ある記者が「(この作品の主人公は)特異なケースの人の話で自分たちとは関係ないと思う人もいるのではないか」と質問し、選考委員代表の町田康がキレ気味に「こわれたトランシーバーで交信しようとする(あみ子の)姿はまさにぼくたちの姿じゃないのですか⁉」と反論したのだった。 不器用で要領が悪く、世間とうまいこと折り合いをつけられない。今村の小説にはそんな人物がしばしば登場するが、『木になった亜沙』の表題作もそんな女性・亜沙が主人公だ。亜沙は空気が読めず間が悪いのだが、それが食べ物のことになると顕著に表れる。 亜沙が差し出した食べ物はいつも誰にも受けとってもらえない。男子生徒にクッキーをあげようとしても、家でレシピどおりに料理を作っても、飼育係として鯉に餌をやっても、呪いがかかったように頑として拒絶されてしまうのだ。 ある日友達とスノボをしている最中、亜沙は道をそれて木にぶつかってしまう。そこで、亜沙が差し出すチョコレートは食べないのに、木から落ちた果実は食べるタヌキを見て、自分も「木になりたい」と思う。やがて亜沙が目が目覚めると、望みどおり木になっており、割り箸として食べ物を人の口に運ぶことに成功する。 安息の場所がなく疎外され続けた亜沙は、モノになることでようやく自分の役割を与えられる。ついに自分が適応できる居場所を見つけたと安息した亜沙はしかし、ある事件によってそこからもはじかれてしまい……。 一般的にはファンタジーとして捉えるべき作品だろうが、幼児向けのおとぎ話や絵本のような朴訥さと残酷さを同時に湛えた作品でもある。また、彼女の作品が基本的にそうであるように、平易でくだけた文体の底流に不穏な空気が蠢いている。徹底して無駄を省いた描写と現実離れしたストーリーが絶妙に混じり合い、小説は現実と虚構のあわいを行く。 トラウマ映画ならぬトラウマ文学、とでも言えばいいだろうか。とはいえ、ここで描かれるのは映画『パラサイト』のような分かりやすい残酷さではなく、黒々として澱のようなものが作品内を漂い続け、行間から滲み出てくるようなおそろしさだ。 二話目『的になった七未』も、表題作の同工異曲という側面がある。こちらは、どんぐり当てでもドッジボールでも「決して当ててもらえない」という数奇な運命を背負った女性の物語。当ててもらえないことで疎外感を覚えた主人公は、いつもひとりぼっちでいる。この作品もまた読み手を不安にさせる不穏な手触りがある。奇妙な余韻を残す読後感は、どの作家とも交換不可能な個性を帯びている。 どちらの作品も異物や異端児として世間から排除された人物の物語である。そしてそれは、冒頭で述べた「異質なケース」などではない。正式な病名こそつかずとも、人は人を異物として排除するし、排除されもする。その瞬間は誰の人生にも容易に起こりうる。町田康の発言はそうした実感に基づいているのではないだろうか。(とさ・ありあけ=ライター) ★いまむら・なつこ=二〇一〇年「あたらしい娘」で第二六回太宰治賞受賞。著書に『こちらあみ子』(第二四回三島由紀夫賞)『あひる』(第五回河合隼雄物語賞)『星の子』(第三九回野間文芸新人賞)『むらさきのスカートの女』(第一六一回芥川龍之介賞)など。一九八〇年生。