――近代日本政治思想史研究の最前線にして最高峰――河野有理 / 東京都立大学教授・日本政治思想史週刊読書人2021年2月12日号福澤諭吉の思想的格闘 生と死を超えて著 者:松沢弘陽出版社:岩波書店ISBN13:978-4-00-061435-1 近代日本の政治思想史に少しでも通じている方であれば、福澤諭吉がその劈頭を飾る知的巨人であること、そしてたとえば彼の主著『文明論之概略』が近代日本の古典であることを疑う人はいないだろう。もっとも、生前から常にそうであったというわけではない。古典にありがちなことであるが、後世の研究者が「発見」し、説得的な「読み」を提供したからこそ、巨人は巨人に、古典は古典になったのである。福澤についていえばそうした役割を果たしたのは明らかに丸山眞男であった。本書の著者松沢弘陽は、丸山に深く学びつつ、自身でも福澤諭吉について精緻で豊かな「読み」を提示し学界をリードし続けてきた。その深さと広がりと正確さは、本書を読めば明らかなように、時に丸山が及ばなかった部分に届いている。 丸山の福澤論の画期的特徴は、本書第一三章に収められた「福澤諭吉における方法の問題――『福澤諭吉の哲学 他六篇』解説」で著者自身が正確に指摘するように、状況におうじて繰り出された福澤の「個々の意見や態度決定の内容」ではなく「それを導く方法への着目」にこそあった。一見すると無節操で矛盾に満ちた彼の言論活動の背後にひそむ首尾一貫した思惟方法それ自体を見事に析出してみせたことで丸山の福澤論は研究史上の大きな画期となったのである。 たとえば本書第Ⅱ部(第三~六章)を構成する諸論文では、福澤の「方法」に着目するという丸山以来の課題設定に寄り添いつつ、それが具体的な政治のヴィジョンにどのように結びつくのかが検討されている。特に重要なのは第四章「公議輿論と討論のあいだ――福澤諭吉の初期議会政観――」である。討論や演説を単なる個人の技能としてではなく、集団的な合意形成や組織化の「方法」として把握する態度が、同時代において抜きんでた水準の議会制理解を示しつつも議会開設をめぐる機構論に専ら傾斜する同時代の言論空間から意識的に距離を取った福澤の選択の背景にあったこと。さらにそれが単に議会制の内部にとどまらない社会の様々なレベルにおける〈討論の政治〉を実践する構想と結びついていたことが明らかにされる。また、第三章「社会契約から文明史へ――福澤諭吉の初期国民国家形成構想・試論」では、同時代の欧米ではすでに時代遅れだった社会契約論を秩序形成の「方法」として改めて選びなおし、公共的事柄に対する無私の関心に駆動された人民とその自発的結社が相互かつ重畳的に「平均」しあいつつ「国民」が構成されるという福澤の政治のヴィジョンが鮮やかに描き出される。 一九九〇年代初頭に発表されたこれらの論文は、今から見れば、単に丸山思想史学を継承しその骨格を肉付けしたというにとどまらず、丸山政治学の新たな――本人がその予兆のみを示してついに本格的に取り組まなかった――展開を具現化している点で重要である。つまり著者は、国民国家の相対化が叫ばれ、NGОなどの市民社会の活動の重要性が叫ばれつつあったその時期に、福澤諭吉のなかから、〈共和主義的な市民とその自発的結社による社会契約〉からなる〈市民の政治学〉の構想を汲みだしてみせたわけである。 だがこれは言うなれば、戦後政治学における思想史と政治学の幸福な結婚の最後の輝きだったのかもしれない。自己改題的な第十二章「福澤諭吉を生きる」(初出は二〇〇九年)には、「この数年、私にとって……福澤の姿が見えにくくなった」(三〇八頁)という印象的な一節がみえる。「新自由主義」や政治改革以降の「荒涼たる風景」の中では、福澤の議論と目の前の現実がうまく接点を結ばないというのである。こうした実感はおそらく、思想史的研究を通して著者がかつて引き出した「戦後政治学」的な秩序のヴィジョンが、生き生きとしたリアリティを持たなくなってしまったという困惑に由来するのではないか。二〇一〇年代に執筆された諸論文からなる第Ⅳ部(第九~十一章)――第Ⅱ部と並ぶ本書の中核であろう――は、福澤の「方法」からポジティブな含意を引き出すことへの悲観的な見通しに対応するように、むしろ福澤の「方法」が持つ限界や危険性、さらにはそうした「方法」の背後にある人間の問題へと関心の重心が移行していくように思われる。 もちろん、周到な著者のこと、すでに九〇年代に執筆された諸論文からなる第Ⅱ部においても、福澤の「方法」がもついわばダークでペシミスティックな側面に目配りはなされていた。「航海には屢々順風の便ありと雖ども、人事に於ては決して是なし」(『学問のすゝめ』)というhuman affairs一般に関するペシミズム、そして「籠絡」という福澤が好んで用いる言葉に象徴される(言語を介した自発的納得の調達とは対極に位置する)操作やマニピュレーションへの志向の影。第Ⅳ部は『福翁自伝』について、「彼の『自伝』についてさえ、はたしてどこまでが自己表現であり、どこまでが「役割」意識から発した「演技」かを疑ってかかる必要がある」という丸山の指摘にいわば舞い戻りながら、かねてから著者が疑念を抱いていた福澤の「方法」がはらむダークな上記諸側面について〈答え合わせ〉をしていく作業でもあったと言えよう。『新日本古典文学大系』に所収されている『福翁自伝』校注はそれ自体が思想史研究における実証水準を驚異的に引き上げた著者の主要業績の一つであるが、その副産物と見える第Ⅳ部は、そうした綿密極まりない「実証」作業が実はかかる福澤の「方法」への執拗な関心の上に成立していることを教えてくれるのである。「状況のいかんにかかわらず俺はこれだ」という内村鑑三型知性――著者の出発点は内村研究だった――と、変転極まりない状況の中で役割を「演技」する福澤的知性とを対比したのはやはり丸山だった(そしてそうした同種の劣化版「状況」的知性が「あの戦争」に際しどう処したのかを丸山は痛いほど知っていた)。福澤におけるその神なき「ヒューマニズムの論理の限界」を指摘したのも丸山である。ではやはり、著者はあくまで丸山に忠実にそうした「限界」を峻拒して見せたのだろうか。 興味深いことにその結論は揺れているように見える。福澤の道が「私の道とは離れている」という自覚の下に絶えざる「自己吟味に『福翁自伝』の物語が私を押し返す」と結ばれる第一〇章。「後世への(進歩の)期待」こそが「死を覚悟してなお生ある限り進んでやまない(彼の)生のあり方を導いた」として『福翁自伝』を「白鳥の歌」にたとえる第九章。 どちらの解釈が正解なのか。評者にこの点の定見があるわけでは無論ない。ただ一つ言えることは、「福澤諭吉の思想的格闘」と題された本書だが、これは丸山からバトンを引き継いだ著者と「福澤諭吉との思想的格闘」でもあるということだろう。本書はまぎれもなく福澤諭吉研究のみならず近代日本政治思想史研究の最前線にして最高峰である。だが、我々後進はこれを越えて進まなくてはならない。ここで「越える」とは無論、それを「徹底的に学んでわがものにした上で、自分たちの力でさらに発展させる知的営み」(三〇六頁)を意味する。(こうの・ゆうり=東京都立大学教授・日本政治思想史)★まつざわ・ひろあき=北海道大学名誉教授・日本政治思想史。東京大学法学部、大学院にて丸山眞男に師事。著書に『日本社会主義の思想』『日本政治思想』『近代日本の形成と経験』など。一九三〇年生。