肉体論から人体論へ、劇作家の渾身の変貌 西堂行人 / 演劇評論家・明治学院大学教授週刊読書人2022年2月25日号 唐十郎のせりふ 二〇〇〇年代戯曲をひらく著 者:新井高子出版社:幻戯書房ISBN13:978-4-86488-239-2 今なお多くの唐十郎戯曲は上演されているが、圧倒的に多いのは一九六〇年代から七〇年代にかけての作品群だ。それは唐の代表作がこの時期に集中しており、一般的にここを彼の全盛期とされているからだ。たしかにわたしもその歴史観を前提に唐十郎やアングラ演劇について繰り返し言及してきた。 だが二〇〇〇年代になって、唐作品は状況劇場時代とは異なる視点で捉えられるのではないかと考えるようになった。その思いは、詩人の新井高子著『唐十郎のせりふ』(幻戯書房)によって、はっきりと再認識させられた。この本の副題は、「二〇〇〇年代戯曲をひらく」となっている。わたしが漠然と考えていたことに、この著者は的確な言葉を与え、唐戯曲に潜りこむように作品を分析し、唐の微細な声に耳を傾けたのである。その結果、状況劇場の栄光をリアルタイムで知る者には絶対書けない唐十郎論が誕生した。 七〇年代の状況劇場は激動の時代にふさわしい相貌を紅テントに現出させていた。だが二〇〇〇年代に入り、内出血している時代になった今、それ相応のかたちがあるだろう。唐は執拗にその時代の内実を探ろうとした。新井は個々の戯曲を精妙に読み解き、実際に立ち会った舞台を反芻しながら、複雑化したドラマ構造と、さまざまなキーワードに着目した。例えば、『夜壺』の「人形」、『闇の左手』の「義手」、『風のほこり』の「義眼」、『糸女郎』の「代理母」といった身体にまつわる虚構という主題を摑み出した。とりわけ一九八三年に初演された『ジャガーの眼』の「臓器移植」は、二〇〇〇年代に幾度も改訂上演され、二重三重に複雑化せざるをえなくなった二十一世紀に見合った唐作品の変貌を明確にした。六〇~七〇年代に展開された肉体論は、人体論へと〝進化〟させられたのだ。 もう一つ注目すべきは、描かれる舞台の設定である。舞台は廃工場や閉店目前の食堂など都市や路地から一歩退いた室内空間にある。そこには行き詰った資本主義世界があり、市場原理から取り残された職人たちの生の実態が提示される。失われていくモノや風景は一見すると、後退したノスタルジーの世界に映し出される。が、著者はそこに「使い棄てて忘却しようとする社会システムに抵抗する」拠点を見出し、唐組の俳優たちはそこに息を吹き込む。その新たな唐世界を新井は「状況劇場時代の野放途な肉体からは遠い」が、むしろそこにこそ二〇〇〇年代のリアリティがあり、「頑丈な書きことばでなく、風のように去る耳ことばのほうが似合う人間像を一貫して描いている」と締め括るのだ。 各章が劇中歌の引用から書き始められるのは、「唐戯曲において劇中歌は芝居の要だ」と考えているからだ。 テント芝居の豪放さを見据えつつ、劇作家の渾身の変貌を見定める。この書は唐十郎読解を確実に一目盛り先へ進めた。(にしどう・こうじん=演劇評論家・明治学院大学教授)★あらい・たかこ=詩人・埼玉大学准教授。詩誌『ミて』編集人。詩集に『タマシイ・ダンス』(小熊秀雄賞)『ベットと織機』、編著に『東北おんば訳 石川啄木のうた』など。一九六六年生。