――戦争の「記憶」はどのように伝られてきたか――好井裕明 / 日本大学文理学部教授・社会学・エスノメソドロジー週刊読書人2020年9月4日号戦後日本、記憶の力学 「継承という断絶」と無難さの政治学著 者:福間良明出版社:作品社ISBN13:978-4-86182-814-0 戦後七五年、戦争を体験した人の高齢化が進み、ますます体験の直接的な語りが希少かつ貴重となる現在、戦争の「記憶」はどのように伝えられているのだろうか。戦後メディアにおける「記憶」の制作を精力的かつ緻密に検証してきた著者は、二つの力学を明らかにしている。それが本書の副題にある「継承という断絶」と「無難さの政治学」だ。 私は靖国神社、千鳥が淵、広島、長崎、沖縄の摩文仁、鹿児島の知覧での戦後の「変遷」を改めて読み、それぞれの場所と状況が反映され時代ごとに「記憶」の制作が変容していったという事実に驚かされる。例えば広島では戦後すぐは忌まわしい記憶として被爆体験が捉えられ、「慰霊祭」は平和を祝って楽しく騒ぎ、原爆ドームは撤去されるべき「廃墟」だった。それが時代の流れの中で保存運動が高まり、世界遺産化され、「廃墟」から「モニュメント」へと変貌を遂げていく。直接被爆者が精力的に体験を語りだしていた頃、被爆の「記憶」継承がいかに困難であるのかが盛んに論じられていた。だが彼らが高齢化している現在、とにかく「記憶」を「伝承」すべしと伝承者の育成が進められている。こうした「継承」の営みには、「継承」をめぐる原理的困難や不可能さをめぐる議論はその意味合いを薄めている。ただ私は「断絶」という言葉の響きがもつ〝きつさ〟に少したじろいでしまう。考えてみれば、被爆体験に限らず、個人の体験を誰か他の人間がまるごと「継承」することなど不可能だろうと思う。だからこそ「記憶」は途切れなく円滑に「継承」されるものではそもそもなく、つねに「継承」は「不連続」な営みなのだ。それよりも被爆体験や戦争体験が「脱歴史化」され、一般的な不幸の体験として「風化」されることこそ阻止すべきものだ。その意味で著者の主張する「無難さの政治学」は戦争の「記憶」をめぐる社会学的研究が何をまなざすべきかを明らかにしている。かつての日本を戦争へと駆り立てた制度的精神的根源とは何であったのか。紙一枚で戦場へ送られ命を投げ出す営みを「是」とした倫理観はどこから来ていたのか。「天皇を頂点とした権力」への反省こそ、戦争を考える原点だと私は思う。そしてこの原点は「風化」させてはいけない。しかし家族や最愛の人への想いだとして特攻する意志を美化する最近の戦争映画に象徴されるように、あえて原点をみようとしない「無難さ」が今戦争を描くメディア空間を侵しつつある。著者はこうした傾向に警鐘を鳴らしているのではないだろうか。 さて本書を読み、あることを思い出していた。かつて沖縄南風原町にある陸軍病院壕を家族で見に行った。隣接する町民センターには壕内の再現展示があり、壕内環境の劣悪さがわずかながらも実感できた。その後壕内の「臭い」を再現したという町民センターの記事を読んだ。「臭い」の再現に私は驚愕した。「臭い」こそ、戦争体験の凄まじさを象徴しているのではないだろうか。「無味無臭」の記憶をいくら伝承するとしても、そこには「断絶」が拡がるし「無難さ」がはびこっていくのだろうと改めて思う。(よしい・ひろあき=日本大学文理学部教授・社会学・エスノメソドロジー)★ふくま・さとし=立命館大学教授・歴史社会学・メディア史。京都大学大学院博士課程修了。著書に『「反戦」のメディア史』『「戦争体験」の戦後史』など。一九六九年生。