新たな丸山像の予感も芽生える 河野有理 / 法政大学教授・日本政治思想史週刊読書人2022年2月25日号 福澤諭吉と丸山眞男 近現代日本の思想的原点著 者:平石直昭出版社:北海道大学出版会ISBN13:978-4-8329-6846-9 本書『福澤諭吉と丸山眞男』をその副題「近現代日本の思想的原点」とともに眺める時、読者の側は本書の内容をどのようなものと予想するだろうか。おそらく、「これはきっと福澤諭吉と丸山眞男という二人の思想家がすごいという本なのだろう」というものではなかろうか。もう少しうがった見方をする読者なら「福澤諭吉と丸山眞男を結ぶ線を近代日本思想史における正しい「学統」として称揚する本ではないか」と思うかもしれない。長く丸山眞男の薫陶を受けたという著者の経歴を聞き、そのような著者が長年の間に書き溜めた福澤諭吉と丸山眞男に関する論文を集大成したものと知れば(収録された論文のうち初出がもっとも古いものは一九八七年である)、そうした印象は強まる。 誤解を恐れずに言えば、そうした部分が本書に皆無と言い切るのは難しい。本書は確かに「丸山はすごい、福澤もすごい」という本なのである。たとえば、「仮にここ(丸山の著作)に書かれていることがすべて誤っているとしても、この作品(同)は不滅だ」(二三四頁)と断言する著者は、その〈丸山惚れ〉を隠そうとはしない。では、愛が強すぎるゆえに目が曇り、礼賛本にありがちな贔屓の引き倒しが目立つ、本書は要するにそういう本なのだろうか。そうではない。全くそうではない。 本書第二部、著者の丸山眞男論の最大の功績は、〈福澤読み〉としての丸山をその思想史と政治学の中心に据えて見せたことだろう(第六章、第七章、第九章)。丸山はともすれば、西洋近代を理想化し、日本におけるそうした要素の不在を嘆くいわゆる欠如理論の担い手とみなされることが多い。丸山に関するそうしたイメージの流通は、丸山を「論破」するにはヘーゲルやボルケナウ、ウェーバーにシュミットといった種本を精読して丸山の誤読を指摘したり、あるいはそうした西洋産の種本自体の限界を指弾することをもって足りるのだ、という臆断をしばしば伴っていた。だがそうした論者たちは、丸山の専門が他ならぬ「日本」の「政治思想史」であったことを視野の外に追いやりがちであった。ましてや、丸山にとって福澤が単なる思想史の研究対象にとどまらず、その歴史叙述の構造や政治秩序構想の核心にかかわる重要な洞察を与えてくれた思想家であったことに気づくことは稀であった。だがそうした点を踏まえなければ、たとえば「思惟様式としての儒教」といった丸山思想史における重要なテーゼはもちろん、「欲望の体系としての市民社会」(ヘーゲル)と区別される、様々な自発的結社が「Unity in Variety(多様性における統一)」をなすもう一つの「市民社会」の秩序構想が丸山によって選び取られていたことの持つ「意味連関」は理解できなくなる。平石はそのことを実に丁寧かつ緻密に論証していく。それは「愛は盲目」からほど遠い。思えば、丸山自身、福澤に終始批判的な態度を持した服部之総との論争の中で「「あばたもえくぼ」に映る危険」を認めつつ「とことんまで惚れてはじめてみえてくる恋人の真実(……)というものもあるのではなかろうか」と応えたことがあった。本書の第二部、平石による丸山論は、いわば丸山の福澤に対する方法を、著者が丸山に対して応用したものともみなせよう。 では著者の福澤論を収録した第一部はどうなのか。当然に浮かぶ疑問であろう。丸山が「福澤惚れ」を隠さず、著者が「丸山惚れ」を隠さないのなら、その福澤論は丸山の二番煎じにすぎないのではないか。だが案に反して、著者は「福澤読み」としては丸山とは別の道を行く。福澤の主著『文明論之概略』をまさに「原点」たる「古典として立て」、ある種の経書解釈の如く非歴史的に読んでいくことを目指した丸山に対し、著者は「コンテキスト、つまり歴史的文脈のなかで、福澤の書いたものを系統的に読んでいく」(四頁)方法を採用する。結果は見事な成功である。あたかも一枚岩の「古典」としてみなされがちな『学問のすゝめ』はかくてばらばらに解体され、それぞれの発表時期における福澤の現状認識と自身の役割意識に沿って現実に投げかけられる「戦略構想」の束として再編される(第二章)。また、福澤の後年の回顧においては後景に退く著作『分権論』は、「文明の理論家」から「政談家」(政治思想家)への福澤の役割意識の転換を示唆するものとして大きく捉えなおされる(第三章)。従来の研究史によって、あるいは福澤自身の巧みな自己演出によって覆い隠されてきた福澤の政治思想の持つコンテキストの再構成――それを支えるのは考証家としての著者の円熟した力量で、人は著者が名著『荻生徂徠年譜考』の著者でもあったことをたびたび思い出すことだろう――は、今や福澤研究史の上で決して逸することのできないマイルストーンとして輝きを放っている。 こうしてみると、本書は方法の次元で楕円の二つの焦点を持っているといえよう。第二部の丸山眞男論はいわば丸山を「古典として立て」、テキストの内在的分析を主としたものだとすれば、第一部の福澤諭吉論は(丸山の方法に逆らう形で)歴史的コンテキストの再構成を目指している。まずはこの二つのコントラストが本書の読みどころである。 だが、慧眼な読者は同時にこうした図式に収まらない両者のせめぎ合いも読み取られるはずである。『丸山眞男講義録』編集の過程で、著者は「原点」として立てた丸山の経年的な変化の相への関心を深めていく(第十二章、第十三章)。年度ごとに違う講義録の内容をあたかも地層の一枚一枚を腑分けする「知の考古学」的な作業によって読みなおすその作業は、著者が福澤に適用しようとした方法にも通じるものがあろう。その結果として出てくる新たな丸山像の予感もまた本書の中にはたしかに芽生えているように思われる。(こうの・ゆうり=法政大学教授・日本政治思想史)★ひらいし・なおあき=東京大学名誉教授・日本政治思想史。東京大学卒。著書に『荻生徂徠年譜考』『日本政治思想史―近世を中心に』など。一九四五年生。