――ウイルスと細胞、過去の研究倫理、そして確執――島田祥輔 / サイエンスライター週刊読書人2021年3月5日号ワクチン・レース著 者:メレディス・ワッドマン出版社:羊土社ISBN13:978-4-7581-1213-0 本書は一九五〇年代から一九八〇年代にかけて、ポリオワクチンと風疹ワクチンの開発を描いたものだ。中心人物は、アメリカの研究者であるレオナルド・ヘイフリック。大学で生物学の講義を受けた人なら「ヘイフリック限界」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。この言葉は人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に一度だけだがセリフの中に出てくるので、同アニメの熱心なファンなら知っているだろう。ヘイフリックは、通常の細胞は無限に分裂できず、分裂には回数制限があっていずれ細胞分裂が停止して死んでいくことを発見した。この回数制限がヘイフリック限界とよばれているもので、現在では老化やがん細胞との関係で研究が進められている。 ヘイフリックが成し遂げたのは、この発見だけではない。本書で描かれているヘイフリックの知られざる偉業は、感染症を事前に予防する「ワクチン」開発のための細胞を樹立したことだ。 人類の歴史は感染症との戦いといっても過言ではない。アフリカでは古くからマラリアがあり、百年前にはインフルエンザウイルスによるスペイン風邪、二十世紀半ばでは本書にもあるポリオや風疹がある。そして現在は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行の真っ只中だ。 ワクチンは医学最大の発明の一つといってよい。ウイルスや細菌といった病原体を弱らせた、または殺したものを体内に投与して免疫システムに覚えさせ、本物の病原体が侵入してきたときに速やかに対処できるようにするという、人体の免疫システムをうまく利用した感染症予防策がワクチンだ。病原体を弱らせたワクチンは弱毒化ワクチンや生ワクチン、病原体を殺したワクチンは不活化ワクチンとよばれている。 ウイルスを原因とする感染症のワクチン開発には、細胞が欠かせない。なぜなら、ウイルスはそれ単独で増殖することができず、細胞の中でコピーを作ることでしか増殖できない。だから細胞が必要なのだ。しかし、初期のポリオワクチンでは動物細胞が使われていた。動物細胞には未知のウイルスが潜んでいる可能性があり、実際にがんを引き起こす可能性があるウイルスが発見された経緯も本書で紹介されている。他のウイルスが存在しない、いわば「汚染されていない」細胞がワクチン開発には望ましいはずだ。その汚染されていない細胞を作り出したのが、ヘイフリックだ。 ヘイフリックの細胞培養の発端は、ウイルスとがんの研究だった。一九五〇年代のヘイフリックは、ウイルスと細胞のがん化を調べるのなら、ウイルスに汚染されていない細胞で実験する必要があると考えた。しかし、他の動物だけでなく、人間でも何かしらのウイルスに感染している可能性は否定できない。ただ、唯一の例外があった。母親のお腹の中にいる胎児である。胎児は無菌状態で育つと考えられており、汚染されていない細胞として最も信頼できる。そこでヘイフリックは、合法に中絶された胎児の肺などから細胞を取り出し、培養した。この細胞が、ポリオ、風疹、狂犬病などのワクチン製造に今でも使われている。「中絶された胎児の細胞が使われている」と聞くと抵抗を覚える人がいるかもしれないが、それが事実なのだ。 本書で描かれているのは、細胞やワクチンの成り立ちだけではない。現代なら大問題になるであろう囚人や知的障害者を対象にした非倫理的な臨床試験、別のウイルスに汚染されているという不都合な実験データを握りつぶした上司、加熱するワクチン開発の競争と論争、細胞の販売をめぐる政府とヘイフリックの裁判など、医学的快挙の光だけでなく、そこに隠された闇も明らかにされる。科学の読み物としてだけでなく、社会派ドキュメンタリーとしても秀逸な出来となっている。 さて、せっかくのよい機会なので、新型コロナウイルス感染症のワクチンについても補足したい。国内で二月中旬から接種が始まったワクチンでは、今まで必要だった細胞を使わない方法を採用している。RNAという、DNAに似たウイルスの遺伝子のごく一部を注入し、人間の中でウイルスの部品一つだけを作らせる「mRNAワクチン」という、今までにない画期的な手法である。ウイルスの部品一つだけで症状を引き起こしたり、周囲の人に感染させたりすることはないが、免疫システムが認識するには十分である。細胞が不要で、RNAだけなら比較的簡単に大量に作ることができるため、開発も製造も短時間でできる。今までのワクチン開発は五年から十年もかかっていたが、今回は一年足らずで実用化にこぎつけたという、ヘイフリックたちが想像もしなかったようなイノベーションだ。新型コロナウイルス感染症が落ち着いた暁には、mRNAワクチンの開発の舞台裏を描いた物語も読んでみたい。そのためにも今は、マスク・手洗い・三密回避を徹底していただきたい。(佐藤由樹子訳)(しまだ・しょうすけ=サイエンスライター)★メレディス・ワッドマン=米国『サイエンス』誌スタッフ。ワシントンDCで医学・生命科学に関する政治問題を、二十年にわたって取材。