――多様な伝承・伝説から民俗学的にヌシを考察する――問芝志保 / 日本学術振興会特別研究員、宗教社会学・葬送墓制研究週刊読書人2021年10月22日号ヌシ 神か妖怪か著 者:伊藤龍平出版社:笠間書院ISBN13:978-4-305-70943-1 著者によると「ヌシ」とは長年、河川沼沢や深山幽谷、古城廃屋に住んでいて、何か特別な霊力などを身に着けた存在である。並外れた巨体、黄金色など、身体的特徴をもつことも多い。種類としては水棲のヌシが最も多く、生物(ヘビやウナギ、鯉、ナマズなど)のほかに、伝承上の生物(竜や河童など)の場合もある。人がヌシと化した例もある。 本書は、日本全国に伝わるヌシ伝承を多数収録した、妖怪やフォークロア全般に関心を持つ一般読者向けの読み物となっている。同時に、できる限り多くの事例情報を収集し、比較や帰納的な分析を試みるという方法論に忠実にのっとり、ヌシの種類や行動学、人とヌシの関係性をあぶりだそうとした、民俗学的業績でもある。意外なことに、これまで民俗学界隈でヌシを本格的に取り上げた研究はなく、本書がその嚆矢となるという。「ヌシは普段姿を見せず、近づかなければ無害である」というのが、基本的なヌシの行動学である。ヌシと人の間にトラブルが生じるのは多くが、ヌシのテリトリーに人が侵入したときや、住処を破壊したとき、ヌシを捕えようとしたり殺したりしたときであるという。その場合にのみ、ヌシは人を襲ったり、祟ったりする。英雄が退治することもあるが、人とヌシが交渉、契約をした例もある。また、ヌシが人を助けたり、人との間に子孫を残したりすることもある。さらに、ヌシと人が共闘することも、ヌシ同士が交流したり争ったりする場合もある。ヌシが人に化けることもある。こうした例を聞くと、それらをモチーフとした昔話や説話が想起されるだろう。 また本書では、ヌシと、柳田・水木らによる妖怪論にとどまらず、現代のタクシー幽霊談や児童文学作品、宮崎アニメ、ゴジラなどとの類比も行われている。このあたりは、近年では怪談の類や、未確認生物、ネットロア(インターネット上の「恐い話」)の研究でも知られる著者の、真骨頂ともいえるかもしれない。 本書で紹介されるヌシ伝承・伝説の多様さに魅了される。巻末には「都道府県別ヌシ索引」も収録されている。ただ実を言うと、本書を通読し終えたところで、「結局ヌシって何だろう」という疑問が氷解するわけではない。著者もあとがきで記しているように、ヌシというテーマは非常に難しいようだ。その棲み処とするよどんだ泥沼からヌシの姿を垣間見てしまったがために、いっそうその正体がわからなくなった、とでも言えようか。本書に示された多くの事例を手掛かりに、私たちはさらなる探索の旅へ誘われるのである。 なかでも、コロナ禍の今だからこそ私は、ヌシのパワーや霊力と、人間サイドの力量との、緊張関係が見出されうる点に興味をひかれた。各地の伝承をみると、そもそもヌシと人は棲み分けを前提とするが、相対せざるをえない場合がある。その際、ヌシと人間は互いの力をうかがいながら、その強弱に応じて場合ごとに全く異なる対応をとっていることがわかる。ヌシが人間よりも圧倒的優位にあることもあれば、人間に負けてしまい、以降人間との契約を律儀に守り続けている例もある。人間が勝利したとしても、ヌシが死後になお霊力を強めたため、丁重な祀りの継続が必要になることもある。その関係性の多様さや駆け引きの様相が示すのは、ほのぼのとした「日本人と自然との共生物語」ではない。自然は人間に牙をむき、災厄をもたらす。人々はそれを怖れ、鎮め調伏しようとしてきた。ヌシの伝承は、互いの存亡をかけた、人と自然の厳しい闘いの歴史を表しているように思われる。(といしば・しほ=日本学術振興会特別研究員、宗教社会学・葬送墓制研究)★いとう・りょうへい=國學院大学准教授・伝承文学。著書に『江戸の俳諧説話』『ツチノコの民俗学』『江戸幻獣博物誌』『ネットロア』『何かが後をついてくる』『怪談おくのほそ道』など。一九七二年生。