――根本概念、理論史、その行方を見据える――磯野真穂 / 医療人類学・文化人類学週刊読書人2020年5月29日号(3341号)人類学とは何か著 者:ティム・インゴルド出版社:亜紀書房ISBN13:978-4-7505-1595-3イギリス、アバディーン大学の教授を務めるティム・インゴルドは、人類学の大家、エドマンド・リーチの教えを受けた人類学者である。現在インゴルドは、リーチを含めたこれまでの人類学のあり方を批判的に展開させながら二一世紀の新しい人類学を切り開いている。 インゴルドは冒頭で人類学を次のように再定義する。人類学とは、人々とともに研究する学問である。人間を人間たらしめるのは、私たちはどのように生きるべきかという問いを通じてであり、人類学はその問いに世界中の人々の知恵と経験を注ぎ込むのである、と。 これは一体どういうことだろう。その答えは、それこそ読者一人一人が、本書を通じて読み取るべきであるし、加えて巻末には、インゴルドの思想を積極的に本邦に紹介・展開してきた奥野克巳による丁寧な解説も付されている。したがって本書評においては、人類学にすでに馴染みがある者、人類学を学習中の者、人類学初心者の三タイプの読者を想定し、それぞれの水先案内を記したい。 まず人類学に馴染みのある者は、第2章の「類似と差異」からとりわけ多くの示唆を得ることができるだろう。インゴルドはここで、複数の文化ではなく複数の世界があるという、昨今の人類学者がしばしば口にする考えに異を唱える。インゴルド曰く、人類学の使命とは「多種多様の異なるものからなる世界が一つであることを、明晰に確信をもって打ち出すこと」、「(これまでとは)別のやり方で人間を捉え直すこと」である。この問いに真剣に向き合うためには、人類学の根本概念である類似と差異を捉え直さなくてはならない。するとその問いは必然的に、自然という普遍の上に文化という多様が乗った二層で人間を捉える理解への疑義、及び、人間存在を世界の中で生成され続ける関係論的な存在としてみなさねばならないという彼の議論の核心に繋がってゆく。また2章に付言し、第5章「未来に向けた人類学」において示される、人類学の外側に人類学者の声が届きにくい理由についても内省したい。 次に人類学を学習中の者は、第3章「ある分断された学」と第4章「社会的なるもの」が特に有用であろう。現行の人類学は、なぜこのように「分断」されてしまったのか。その答えが、一七世紀の啓蒙主義の勃興にまで遡られて語られる。加えてこの二つの章では、学習者が戸惑いやすい、アメリカ人類学とイギリス人類学の差異とその理由も解説されており、さながら人類学の理論史を読んでいるかのようである。「統合された人間の学」という壮大な野望の中で生まれた人類学は、なぜ細分化の罠に陥ってしまったのか。社会に注目したことで起こった弊害は何か。人類学のこれまでを知り、この先を見据える上で必須の二つの章である。 最後に人類学に馴染みのない読者に向けて。本書のタイトルは「人類学とは何か」であるが、人類学の導入書を期待してこの本を手に取るとおそらく迷子になってしまうであろう。なぜならこれまでの人類学が好んで使ってきた「多様」や「文化」といった言葉の数々が、本書において批判的に捉え直されているからである。とはいえ、そのような読者にこの本が不要であるというわけではない。まず奥野の解説を読み、その上で、この本を傍に置きながら、すでに数多く出されている人類学の教科書を紐解いてほしい。そうすればインゴルドの目指すところとともに、人類学への理解が進むだろう。 インゴルドの議論自体への批判的な読みも含め、文化を語らなくなった人類学の行方を考えたい、すべての人に手に取ってもらいたい。(奥野克巳・宮崎幸子訳)(いその・まほ=医療人類学・文化人類学)★ティム・インゴルド=イギリスの人類学者。ケンブリッジ大学で博士号を取得。ヘルシンキ大学、マンチェスター大学を経て、現在アバディーン大学教授。著書に『ラインズ 線の文化史』『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』など。一九四八年生。