――女神として示現した観音の歴史的背景に迫る――塩見弘子 / 作家週刊読書人2021年5月21日号救いの信仰 女神観音 庶民信仰の流れのなかに著 者:小島隆司出版社:青娥書房ISBN13:978-4-7906-0380-1 先日、ちょっとしたアンケートに答える機会があり、その性別欄に「男、女、どちらでもない」とあって、新しい時代の反映を感じたところだった。だがこの「どちらでもない」は仏の世界では特別なことではなく、確かに如来や他の菩薩についてはその性別が問われることはほとんどない。ところが庶民信仰では、観音は女性か、男性かがしばしば問題になるという。 そこに目を留めた著者は、観音がインド、中国、日本などの地でどのように女性ないし女神として現れ、展開してきたのかを考察。 すると実に興味深いことがわかってきた。観音も仏教界のなかでは菩薩であるため、〝正統〟仏教においては当然男性とされ、事実、観音像の多くは髭をたくわえられているというのだ。 ところが庶民のなかでは、観音は母なる慈愛をもった女性神として浸透していく。中国では六世紀半ば、日本では九世紀初頭にはすでに観音が女性として現れる説話がつくられていたという。 それは自然のことだったのかもしれない。もともと信仰は現世利益を願うところから始まる。縄文時代の人々も海山の幸を願い、災難から守られることを切望し、いわゆる〝神〟に祈りを捧げていたのだろう。万物を生み出す大地を、いのちを育む母胎を、驚きをもって身近に感じていたはずである。 やがて日本に仏教が伝わると、それが〝仏〟や〝観音〟に祈ることになっていく。観音像の美しさや優しさは、自ずと生まれた女性性だったともいえる。 それは仏教だけに限らない。キリスト教においてもマリア信心が生み出されていったように、宗教には、特に庶民信仰においては、女性性を求めていく傾向がある。近世の隠れキリシタン時代に聖母マリア信心と結びついて「マリア観音」の崇敬を生み出したこともよく知られている話だ。「天の父なる神」という言葉に象徴されるように、本来、厳格な罪と罰を説く父性的な宗教に、それまで日本人が馴染んできた母性的・抱擁的な宗教感が自然と融合していく世界――。そこには何か人間の根源につながる、原始的知性ともいえるようなものが潜んでいる気がしてならない。 評論家の竹下節子氏は聖母マリアについて、受け身の女性ではなかったと記している。「受胎告知」ひとつとっても、天使の言葉を鵜呑みにせず、妊娠しているにもかかわらず遠方に住むエリサベトのもとへ一人で、徒歩で訪ねて行き、本当に聖霊の業なのか確認しに行っているというのだ。一見、静かで控えめなマリアの中に秘められた、勇気、判断力、行動力……。 この本におさめられている多数の石仏の写真を今一度見つめ直していくと、その中に同じエネルギーを感じる。優しさと慈愛の奥底に秘められた、捨て身の強さ。対極のエネルギーがひとつになったとき、無限の創造を生み出す、と説いたのは老子だった。多くの人々の願いや悲しみを受け止めてきた女人観音のなかにも、私たちの想像をはるかに超えた深遠な世界が溶け込んでいる、と示唆された思いがする。(しおみ・ひろこ=作家)★こじま・たかし=日本石仏協会会員。著書に『遊びの哲学』など。一九四一年生。