――キリスト教の福音に隠された無限の富と宝――片柳榮一 / 京都大学名誉教授・宗教学週刊読書人2020年8月21日号わたしたちの信仰 その育成をめざして著 者:金子晴勇出版社:ヨベルISBN13:978-4-909871-18-3本書は著者自ら前書きで述べているように「読みやすいもの」(4頁)であるという。著者が所属する教会で、また勤 務された大学で折々になされた講話のうち四〇編を集めたものである。「分かり易く、読みやすい」という言葉が通常 含み持つ「内容も薄められて読みやすい」ものかとの安易な読者の予想は見事に覆され、どろりと濃い内容を突き付け られ、驚かされることしばしばである。さすが「ヨーロッパ思想史」で長年鍛え抜かれた著者の思索の冴えを覚えさせ られる。この短い講話を集めた書にも、著者の思想の根底を支える確信が滲み出ている。 著者は「霊性」についてしばしば語る。私たちの干からび乾き切った心の裏返しなのか、昨今スピリチュアリティとい う言葉が流行となっているが、この言葉の危うさをよく踏まえつつ、著者は、鋭くポイントをついている。「人間の心 には悪霊が住みつくことができるし、イエスがそれを追放して神の国に導き入れられることもできる。わたしたちはこ こに霊性の受容機能を看取することができる。悪霊との関係で明瞭となるのは、人間の心には「ものの虜となる」とい う特質、受動的な心の機能があって、これが霊性の特質となっている。心はその霊性において諸々の悪霊の虜(奴隷) となることも神の霊によって新生し、神の子どもともなることができる」(40-41頁)。私たちの心は堅く自立している というより、「ものの虜になる」ことを求めている。「仕事に熱心な人には勤勉の霊が、政治的野心に燃えている人に は、権力志向の霊が、お金を蓄えている人にはマモン(財神)の霊が、女性を求める人にはドン・ファンの霊が乗りう つっている」(39頁)。しかしそれは人間の弱さを示すだけではなく、底知れない人間の心の深みをも告げている。人 間が単なる知性的存在であることを突き抜けたその奥底に、著者は霊性の受動的機能をみており、それは受動的である ゆえに「ものの虜となる」ことがしばしばであるが、「この霊に神が働きかけると、霊性が創造的な働きを発揮するこ とが起こる。それゆえに若い時に内心に潜んでいる霊に目を向け、心田を耕し、深いところまで掘り下げ、思想の種を 蒔くならば、やがて大きな収穫を納めるようになるであろう」(50-51頁)と語る。 この霊性の考えはまた、著者がアウグスティヌスから教えられた「人間存在の神への対向性」という概念と深く結びつ く。著者によれば、「『あなたがたの目が澄んでいれば』(マタイ6、22)」というのは、目が神にのみ向かっていれ ばという意味であり、目を支える心の動きが専一的に神に対向していることを言う」(132頁)。イエスがすべてを棄て て私に従ってきなさいと厳しく語る時、「心が専一的に神に対向するように呼びかけており、神との人格的な関係の中 にこそ真の宝があることを説いてやまないのである」(133頁)という。著者はこの概念を用いて、私たち現代人がもは や理解しがたくなっている、人間の人格性、宗教性ということの意味を受け取りなおそうとしている。著者はそのよう に深い理解に基づいて、キリスト教はヨーロッパでもやがて衰微してゆくのではとの問いに対して、次のように語りう る。「キリスト教の福音には無限の富と宝が隠されており、新しい状況のもとで、これまでの歴史によって明らかなよ うに、さらに進展することが期待できる」(186頁)。(かたやなぎ・えいいち=京都大学名誉教授・宗教学) ★かねこ・はるお=聖学院大学名誉教授・岡山大学名誉教授。文学博士(京都大学)。著書に『ルターの人間学』(日 本学士院賞)『キリスト教人間学』『知恵の探求とは何か』『アウグスティヌスの知恵』など。一九三二年生。