――「不可能の可能性」に挑む文芸批評――佐藤優 / 作家・元外務省主任分析官週刊読書人2020年12月4日号古井由吉論 文学の衝撃力著 者:富岡幸一郎出版社:アーツアンドクラフツISBN13:978-4-908028-53-3 知的刺激に富む文芸批評だ。富岡幸一郎氏は、古井由吉氏のテキストを徹底的に読み込んで、その本質がリアリズムであることに気づいた。この場合のリアルとは、目に見える物ではない。目に見えないが、人間の内面に確実に存在する事柄を指す。〈内面と外界、認識と行為、精神と肉体。文学における「近代」とは、産業革命がもたらした市民社会の反映だけではなく、人間の内的なものにある絶対的な価値を視るプラトニズムがもたらした。「内面」こそ、だから近代文学の布置となる。この内面性にとどまることをよしとせず、「現実を超えた境における愛の合一」(『ロベルト・ムージル』)を描こうとしたムージルの小説の驚くべき言語世界と、古井由吉は出遭う。そこから、「杳子」は出発し、この試みは近代小説の「空間」を決定的に変容させるものになった。それはたんに小説の主題や技法の問題ではなく、現代世界の急激な変化が背景にあるからであり、それを言葉がいかにとらえるかという言語表現の本質的な困難に、作家が直面したからである。「小説は社会を映す鏡である」といわれるが、それは現実をリアルに描けばよいというのではなく、その現象の背後にある名付けようもないものに、新しい言葉を与え、刻々に変化してやまない出来事の本質をとらえ表現することである〉。富岡氏の解釈は、近代プロテスタント神学の方法と親和的だ。コペルニクス革命と啓蒙主義に直面して、神学は形而上的な「上にいる神」という観念を維持することができなくなった。プロテスタント神学の主流派は、神の場所を天から人間の心の中に移動させた。心の場所を物理的に明示することはできない。しかし、心は目に見えないが確実に存在する。このような方法論的転換によって神の存在と近代的宇宙像の間に生じる矛盾を解消できるようになった。近代文学による内面の探求は、世俗化された形で神を求めることなのである。このとき神は概念ではなく、具体的な事柄(ドイツ語のSache)として現れる。 富岡氏は、古井氏が旧約聖書の預言者の機能を果たしていることに着目する。預言者と、未来を予測する予言者は、まったく別の範疇に属する存在だ。預言とは、神から預かった言葉の意味だ。古井氏は、自分の心の中にある事柄を、テキストにして外部に伝えているのだ。例えば『楽天記』は、日本のバブル経済の崩壊を予言した書ではなく、現下日本の状況に対する世俗化された神からの預言を伝える作品なのである。〈『楽天記』はしかし、バブル経済の虚構と異常さや、その崩壊の顚末をただ予見して見せた作品ではない。作中に、奈倉が亡父の口から出た落雷のごとき衝撃を与える――「マーゴール・ミッサービーブ」という旧約聖書のへブライ語の言葉が、深層から出現し、この「周囲至るところに恐怖あり」という意味の預言者の叫びが、エレミヤ書や中世のキリスト教神秘家のエックハルトの筬言と響き合いながら、これまで誰も見たことのない光景を創り出していくのである〉。 古井由吉氏の作品を読み解くことによって、富岡氏による文芸批評の方法論が可視化される。富岡氏は、第一次世界大戦による大量殺戮と大量破壊に直面して、神学を根本から立て直したスイスのプロテスタント神学者カール・バルトの弁証法から強い影響を受けている。バルトは神と人間の質的断絶を強調し、原理的に人間は神について語ることができないのであろうが、説教壇に立つ牧師は神について語らなくてはならないとした。このような「不可能の可能性」に挑むことが神学なのだ。作家の内面についても他者は原理的に語ることができないが、文芸批評家はそれについて語らなくてはならない。古井氏の読み解きにおいても富岡氏は「不可能の可能性」に挑んでいる。(さとう・まさる=作家・元外務省主任分析官)★とみおか・こういちろう=文芸評論家。関東学院大学国際文化学部教授、鎌倉文学館館長。著書に『最後の思想 三島由紀夫と吉本隆明』『川端康成 魔界の文学』『虚妄の「戦後」』『生命と直観―よみがえる今西錦司』『天皇論 江藤淳と三島由紀夫』など。一九五七年生。