――微笑ましくも、懐かしい、ユーモアと哀しみに彩られた思い出――岡本勝人 / 詩人・文芸評論家週刊読書人2021年1月22日号こんこん狐に誘われて 田村隆一さんのこと著 者:橋口幸子出版社:左右社ISBN13:978-4-86528-003-6 橋口幸子さんの『こんこん狐に誘われて 田村隆一さんのこと』は、詩人北村太郎の思い出による『珈琲とエクレアと詩人』や同性として田村和子を語る『いちべついらい』につづく、稲村ヶ崎三部作の物語である。 彫刻家の高田博厚の一人娘である田村和子と、戦前からモダニズム詩の影響を受け、戦争体験を経て出発した「荒地」の詩人田村隆一と北村太郎の偉大な詩人との複雑に入り組んだ実相がある。すでに『荒地の恋』(ねじめ正一)以来、wowowのテレビでも、豊川悦司と鈴木京香の主演による恋愛ドラマとして放送された。 著者の橋口さんは、田村隆一が編集長を務めた早川書房に勤務し、校正者として夫とともに、稲村ヶ崎の田村家の二階に住み込んだ。丘の上の一軒家には、北村太郎が隣の部屋に暮らしているのだが、物語は、田村隆一がその部屋に帰ってくるところからはじまる。橋口さんの書き振りは、とても清楚な穏やかさで、主人公の田村隆一を実にうまくとらえている。それは、妻の田村和子も若いころからの仲間だった北村太郎についても、同様である。橋口さんが隣で接した三人の性格や話し方、動作に至る細部を書く筆には、何よりも抑制された文章のなかに三人への深い思いが色濃く込められている。三人の姿は、微笑ましくも、懐かしい、ユーモアと哀しみに彩られた思い出とともにあった。 田村隆一が生まれたのは、一九二〇年代初頭の大塚の「鈴む良」という鳥料理屋である。その店は、今はホテルになっているが、近くには田村さんが懐かしく通った居酒屋「江戸一」がある。結核などで、信州に療養したこともあるが、最後は、鎌倉の二階堂に住み、妙本寺に墓がある。稲村ヶ崎の物語は、田村隆一の出自から亡くなるまでの人生で、小高い丘のように存在する時代を描くエッセイである。戦後詩人として晩年になってもマスコミに登場する知名度をもつ田村隆一は、多くの編集者を集めていた。同様に、朝日新聞社で校閲部長をしていた北村太郎は、田村和子と稲村ヶ崎を機に仕事を辞め、横浜を舞台にした詩集『港の人』で、読売文学賞を受賞した。 三人から「ゆきちゃん」と愛された著者は、一人一人に温かい眼差しを投げかけ、かけがえのない思い出を遠景から取り出してくる。想起された一コマ一コマが、「ゆきちゃん」の追憶から読む人に伝わってくる。三人三様のエラン・ビタールが、不可思議な関係性とともに描かれた。鎌倉小町通りにある喫茶店で、いつもの席で珈琲とエクレアを注文する北村太郎も、今はいない。稲村ヶ崎から極楽寺の途中にあるお稲荷様に油揚げを供える田村和子さんも、今はいない。そして何よりも、こんこん狐に誘われてお酒をこよなく愛し、「いちべついらい(海軍用語=久しぶり)」と語る詩人も、遠い世界に逝ってしまった。 田村隆一と田村和子、そして北村太郎の思い出は、人間田村隆一を愛借の情をもって活写した本書によって、移動祝祭日のようにいつまでも語られるだろう。そこにあるのは、人間の晩晴の姿を語りつづける真摯な著者の姿である。(おかもと・かつひと=詩人・文芸評論家)★はしぐち・ゆきこ=大学卒業後、出版社に勤務。退社後はフリーの校正者として六十歳まで働く。著書に『珈琲とエクレアと詩人 スケッチ 北村太郎』『いちべついらい 田村和子さんのこと』など。