――負の感情に溺れ、他人を引きずり込む前に――佐藤飛美 / 在野研究者・英米文学週刊読書人2021年2月12日号イッカボッグ著 者:J・K・ローリング出版社:静山社ISBN13:978-4-86389-596-6「出版前の『ハリー・ポッター』原稿を取り寄せて」という命令は、達成不可能と相場が決まっている。映画『プラダを着た悪魔』で、編集長のミランダからこの無理難題を課されるのは、新人助手のアンドレア。通称〝新しいエミリー〟。わたしたちは、上司の専横なふるまいに翻弄される彼女の姿を笑いながら「傍観」できる。映画の一幕だからだ。 だが、これが現実ならば、どれだけの人が下っ端の〝エミリー〟を助けるだろうか。知らないふりをする人、ただささやくだけで疑問の声を上げない人、都合のよい解釈を容易に受け入れる人。成分「理不尽」の底なし沼で、人は簡単に不合理に染まる。『イッカボッグ』は、よからぬ同調行動をとる人間の本質を描いた、社会政治的おとぎ話だ。舞台は、沼地に棲む「イッカボッグ」という怪物伝説を有するコルヌコピア。豊かな王国は召使いの過労死に端を発し、貧困への一途を辿っていくことになる。怪物伝説を悪用する者が現れるのだ。怯えた人びとの保身の言動は問題を大きくし、誰も恐怖政治を止められない。こうして貧しくなった国を救うべく、子どもたちが友情で団結して立ち上がる。 J・K・ローリングの二作目の児童文学作品となる本書の草案は、『ハリー・ポッター』執筆中に作られていたという。新型コロナの流行を機に完成した物語は、子どもたちのために、はじめはオンラインで無料公開された。同時に挿絵コンテストが行われ、入選した三四作品が本書の該当章を彩っている。これまでにはない介入する語り手と分かりやすい登場人物名、生き生きとした挿絵は、幼い子どもへの読み聞かせ作品にふさわしい。衣装や架空の食べ物の詳細な描写も健在で、『ハリー・ポッター』から変わらない著者の考えを随所に見つけられる。 人は結局、信じたいものを信じる。真実よりも願望を選ぶ人もいる。しかし真実に目を瞑る人が増えるほど、世界は灯りを消していく。怪物の秘密を知った少年は、「心配事を全部大人の足元に投げ出せば〔……〕すべて解決してくれる」と信じて夜道を逃げる。彼を逃がす大人は「誰も信用してはいけないよ。がんばりなさい」と助言することしかできない。誰が味方か分からない暗闇では、みなが敵に見えるだろう。だから頭のなかで膨らむ怪物の悪夢にうなされるとしても、それが「怪物らしい」姿で想像されるうちは健全で恵まれていると思う。最も恐ろしい怪物として「人間」を挙げる人は、同じ人間に対して絶望感を抱いたことがあるからだ。 物語で言及のない、恐怖に怯えた大人たちの責任を考えてしまう。被害者としての選択は、未来の自分を加害者に変えるかもしれない。著者はハーバード大学卒業記念演説で次のように語っている――「他人の気持ちを考えない人たちは、直接悪事に手を染めずとも、無関心であることにより、本物の怪物を生みだす行為に加担している」と。演説と物語の内容が重なってみえる。事実、わたしたちは互いに、自分とは異なる人びとの立場を考え、言動を選択する「共感能力(empathy)」を切実に必要としている。『イッカボッグ』の始まりとなる過労死も、命令だと思えば残酷になれる人間も、貧困ゆえに我が子を孤児院に託す親たちも現実の問題だ。未知なものに対して一方的に恐怖心や偏見、憎しみをもつことに警鐘を鳴らす本書は今、コロナ禍で奮闘する人びとに必要な書だろう。 この物語の鍵は、「生まれ継ぎ」にある。案の定、原稿が手に入らない日本版〝エミリー〟の立場を想像しよう。彼女は誰からも助けを得られず、ミランダに「これだから「ゆとり」は」と揶揄される。大人が決めたレールに乗ってきただけなのに、悪い「生まれ継ぎ」と評される。多くの〝エミリー〟たちの名前は、「ゆとり」ではない。疲れた彼女たちが、ふつふつ湧いていく負の感情に溺れ、他人を引きずり込む前に、わたしは手を差し伸べたい。コロナが人びとの生活のあり方を強制的に変えている今、わたしたちの心の持ちようや態度も、よい「生まれ継ぎ」をする頃合いではないだろうか。終盤、人びとが受け取る花の花言葉は「希望」「友情」だ。厳しい冬が続きコロナ収束の希望はまだ見えずとも、人間という名前の怪物はもう、いらない。(松岡佑子訳)(さとう・あすみ=在野研究者・英米文学)★J・K・ローリング=イギリスの作家・脚本家。著書に『ハリー・ポッター』シリーズ・『カジュアル・ベイカンシー 突然の空席』、脚本に『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』など。一九六五年生。