――日本、そして世界の生命科学研究の抱える問題について――緑慎也 / サイエンスライター週刊読書人2020年6月12日号(3343号)研究不正と歪んだ科学 STAP細胞事件を超えて著 者:榎木英介出版社:日本評論社ISBN13:978-4-535-78767-4今さら「STAP細胞事件」をふり返る必要があるのかと訝しむ向きもあろう。本書の発売は昨年一一月だが、「当初本書が発売される予定だった時期から五年が経過」(序章)したという。しかし新型コロナウイルスを巡って怪しげな言説が飛び交う今こそ、六人の書き手による、この論考集を読んでいただきたい。 事件の詳細は、第1章に記されている。サイエンスライターの粥川準二氏は「『研究論文に関する調査』よりも(略)『STAP現象の検証』のほうが優先されてきたように見える」とし、もし論文の不正が確認されていれば「理研自身による検証実験≒再現実験など必要なかったはずである」と指摘する。あの検証実験はいわば金のかかる茶番だったわけだ。 第2章では、研究倫理の専門家で、理研が設置した「研究不正再発防止のための改革委員会」のメンバーも務めた中村征樹氏が、同委員会による再発防止策や文科省が新たに策定した研究不正を防ぐためのガイドラインの狙いと限界を解説する。第3章では、学術誌編集の経験のある舘野佐保氏が、科学論文執筆にまつわる様々な問題点を指摘する。 新型コロナウイルスは世界の経済に大打撃を与えている。今なお収束の見通しが立たない疫病に対抗する治療薬やワクチンへの期待は極めて大きい。しかしだからこそ研究不正は起こりやすい。そのことを教えてくれるのが、本書の後半部である。第4章では生命科学研究の経験を持つ大隈貞嗣氏が、バイオベンチャーや製薬企業など、生命科学研究を取りまくビジネスの問題点を述べる。治療薬開発の効率が向上した結果として、爆発的にヒットする薬(ブロックバスター)が生まれにくくなり、その結果として製薬企業は既存薬をちょっと改良した薬を売るべく、マーケティングに力を入れ、過剰に宣伝するようになっているという。 第5章では、研究所でテクニカルスタッフとして勤務した経験のある片木りゅうじ氏が、研究室の構造問題を取りあげる。不正がいけないことは誰にもわかる。しかしなぜ発生するのか。この章を読むと、権限の集中するPI(研究主宰者)と、その部下(ポスドクや秘書など)からなるPIラボ制度が、研究不正を生み出す温床であることがわかる。片木氏は具体的な改善策も提示している。終章では、本書の編著者で、これまで研究不正や若手研究者が置かれた状況について積極的に発信してきた病理医の榎木英介氏が、日本では研究不正に対する取り組みが遅れ、世界でも稀にみる研究不正大国であることを指摘した上で、ただ何がダメかを教える予防倫理教育に代わって、何が良い行いかを教えたり、一緒に考えたりする志向倫理教育の可能性について言及する。 今、日本の、そして世界の生命科学研究がどういう問題を抱えているのか。本書は、過去の研究不正を読み解くときだけでなく、これからの新型コロナ治療薬、ワクチンの開発競争を見守るときに必要な視点を提供してくれる。(みどり・しんや=サイエンスライター)★えのき・えいすけ=一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事/病理医。神戸大学医学部卒。博士(医学)。著書に『博士漂流時代』『嘘と絶望の生命科学』など。一九七一年生。