――心の行方と所在を求めて――宮崎智之 / フリーライター週刊読書人2021年11月19日号心はどこへ消えた?著 者:東畑開人出版社:文藝春秋ISBN13:978-4-16-391430-5 専門家の予測する新型コロナウイルスが感染爆発した場合と、くいとめた場合の線グラフを見て、自分がそのグラフのどこにいるのかがまったくわからなかった。行動様式が発表されても、自分は現在三九歳で東京に住んでいてプライベートや仕事ではこういう課題や局面に直面していて……といった個人的、かつ切実な問いの答えは、「行動様式」という大きな括りのなかに押し込められていた。自分はどこにいて、自分の「心」はどこにいってしまったのだろうか。正解はないが、東畑開人の『心はどこへ消えた?』を読み、その行方、所在に当たりをつけることができた。 本書は新型コロナに翻弄された二〇二〇年五月から二〇二一年四月にかけて執筆されたエッセイをまとめたものだ。しかし、東畑自身が書いているとおり、同書はいわゆる「コロナ本」とは一線を画している。もっと大きな視座で心の行方を追っている内容になっているのだが、一方でそこに綴られているのは、個人的な小さなエピソードばかりである。そこにこそ本書の刮目すべき部分が宿っている。 臨床心理士・公認心理師でもある東畑の元には、傷ついた人、心の調子を崩した人たちが多く訪れる。大企業の取締役になり、現在も数々の名誉職に就いている六〇代後半の男性は、誰かと競い合う悪夢に悩まされている。五〇代の女性は、出て行った夫に親密な女性がいたことを知る。どもりに悩み、不眠に苦しめられている。そういったごく個人的なエピソードは、カウンセリングを専門にしない読者にとって「他人事」に感じるものかもしれない。しかし、その他人事は当人にとっては切実なものであり、評者が失ったと感じていた「心」がそこにある。人生とは一回性で交換不可能なものだ。誰にとってもそうである。他人事のなかに、切実な個人の語りのなかに、自分の人生を評者は見つけたような気がした。 そして、心を失った背景には、「言葉」が失われている現状があることに思い至る。「大きな言葉」に個人の人生が絡めとられ、主語が肥大化するか、自分の言葉がカチコチに硬化してときほぐせない状態になるか。そこから脱却するためには、リアルな生活を生きている実感のもとに、言葉を取り戻す必要がある。 言葉があって、はじめて「問い」が生まれる。心が動き出す。心が輪郭を持って立ち現れ始める。経済や政治、社会が優先される世界の中で、心の所在を確かめることができる。他者への想像力を回復することができる。評者が求めていたのは、まさに「他人事」であった。なぜなら評者の心も言葉も人生も、他者から見れば他人事だからである。「他人事の擁護」こそ、一回性で交換不可能な、どうしようもなく実存を背負って生きている評者にとって、大切な態度なのだと教えてくれた。 さらに、癒しを求めて東畑の元を訪れる人々の語りに、自らも癒されているのに気が付く。もしかしたら東畑自身もそうなのかもしれない。語りを聴き、書き綴ることに癒しを見出しているのかもしれない。「心はどこに消えた?」と問いを立て、探し続ける行為の先に、おぼろげになった心の輪郭を読者も摑むことができる一冊だと、評者は確信する。(みやざき・ともゆき=フリーライター)★とうはた・かいと=臨床心理士・公認心理師・十文字学園女子大学准教授。著書に『居るのはつらいよ』(第一九回大佛次郎論壇賞・紀伊國屋じんぶん大賞二〇二〇大賞)など。一九八三年生。