後期著作を中心に分析的手法によって論究 江川隆男 / 立教大学教授・哲学週刊読書人2022年3月18日号 ニーチェの道徳哲学と自然主義 『道徳の系譜学』を読み解く著 者:ブライアン・ライター出版社:春秋社ISBN13:978-4-393-32390-8 本書は、ニーチェの哲学を、とくに『道徳の系譜学』という後期の著作を中心に分析的手法によって論究した、とりわけ英語圏における現在のニーチェ研究の代表的な著作の一つである。近年、こうした分析系ニーチェ研究の著作がいくつか翻訳されるだけでなく、日本でもこうした立場から書かれた論文や著作が現われ始め、また一般的にも確実に注目されるようになってきた。 分析系ニーチェ研究の目的を言うとすれば、それは、西洋哲学史にこれまで登録されてきたニーチェ哲学に関する報告書を真の登録書に書き直すこと、実存主義やポストモダン思想による企画書や報告書ではなく、より分析的手法による正当なニーチェ哲学、つまりニーチェの自然主義を再登録しようとすることである。換言すれば、こうした研究の力点は、とりわけニーチェ哲学の帰属先――つまり、〈〜〜主義〉――を何よりも正確に規定しようとする意志のうちに現われている。 したがって、本書の特徴も、まさに自然主義という地図上へのニーチェ哲学の厳密な規定や的確な位置づけ(帰属先)からくるものとなる。そして、そのために用意されるこの地図上での批判的区別は、例えば、「方法論的自然主義」(M自然主義)あるいは「推考的M自然主義」、「ヒューム主義的ニーチェ」や「治療的ニーチェ」、「軽蔑的な意味での道徳」(MPSと略記される)と「あらゆる価値の価値転換」、等々である。 ニーチェは、著者によれば、すでに確立された諸科学の成果の連続性に依拠するだけのM自然主義者ではなく、とりわけ方法論の連続性のもとに科学の手法を見習おうとする推考的M自然主義者であると言われる。こうした規定については訳者解説でもその矛盾点が指摘されているが、ここで言えるのは、一般的に成果と方法との間にこそ、むしろ分離しがたい相互前提の関係が在るのではないかということである。何故なら、カントに倣うまでもなく、ここには自然法則についての経験に依拠した非純粋な、しかしそれと同時にア・プリオリな総合命題を可能にする方法論が、まさに自然主義のうちでつねに考えられなければならないからである。人間本性には、自己に先立って存在する自然の法則やその存在がア・プリオリに含まれているが、それだけではなく、自己の身体がその本性に不可欠である以上、これとともに人間本性は必然的に拡張されることになる。哲学における自然主義は、人間本性におけるこうしたア・プリオリ性を展開し説明するような、かつ変形や転換を含んだ〈拡張的要素〉、つまり系譜学的認識から構成されるものでもある。ライターが言うような、ヒューム主義的ニーチェから治療的ニーチェへの、あるいはMPSから価値転換への系譜学的移行もこうした価値の認識によって可能になると言える。 ニーチェの自然主義においては、道徳的価値についての判断は人間本性における心理的・身体的事実という自然上の事実によって説明されるが、価値そのものの位相は反実在論(メタ倫理的立場)に位置づけられる。ここにあるのは、とりわけ身体と非身体との間の自然主義的関係である。私見によれば、ニーチェは、ヒュームよりも、はるかにスピノザに近いと言える。感情は人間身体なしには生起しえない非身体的なものであり、そこから感情によって根拠づけられた道徳的判断も、さらにはMPSも、また価値転換への力への意志も、「一心理学者の研究」に帰せられるのはたしかである。しかし、そのような研究が成立するのは、ニーチェがそもそも人間の定義を当の定義されるもの(人間本性)の発生的要素であり、かつ人間の目的として理解しているからである。 自然主義は、本質的に人間の生存の様式としての内在性にかかわる。こうした意味でも、本書の早い段階での翻訳を実現された訳者に敬意を表わしたい。いずれにしても、ニーチェが哲学においてしか問うことができないような諸問題を表現したことはたしかであり、ニーチェ哲学における問う力をもった諸問題の構成に対するその解答方法は今後はもっぱら分析的手法によってなされうるであろう。しかし、そのためにも、新たな問題提起の一つの仕方として、本書の『道徳の系譜学』に関する詳細な解説部分(第6、7、8章)と、例えば、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』の第4章とを比較検討することによってそれらを総合的に論究することもできるように思われる。(大戸雄真訳)(えがわ・たかお=立教大学教授・哲学)★ブライアン・ライター=シカゴ大学法理学教授、法学・哲学・人間的価値研究所所長。専門はニーチェ哲学・法哲学など。一九六三年生。