――災害ドキュメンタリー映画にあらわれる「人間」を看てとる――萩野亮 / 映画批評・本屋ロカンタン店主週刊読書人2021年3月19日号災害ドキュメンタリー映画の扉著 者:是恒さくら・高倉浩樹(編)出版社:新泉社ISBN13:978-4-7877-2001-6 一千年に一度といわれた大地震とそれに伴う津波が、列島の東を襲って、十年が経過する。この十年という、決して短くない時間において、被災した三陸と福島の沿岸部には、たえずカメラが、多様に、存在した。せまりくる津波を目の前で現認する、個人の携帯電話のカメラ。凄惨な被害状況を鳥瞰する、報道ヘリコプターのカメラ。避難所で生活を余儀なくされる人びとに取材する、ジャーナリストのカメラ。そして長期的に通い、または滞在して作品を編む、ドキュメンタリー作家のカメラ……。 本書は、東北大学東北アジア研究センター災害人文学ユニットによる映画上映会の記録を中心として、さらに作り手のインタビューを補完し、総論を添えて一冊としている。災後に撮られた、映画だけでも数百におよぶ長短篇のなかからおもに取りあげられているのは、『ラジオ』『廻り神楽』『被ばく牛と生きる』『赤浜ロックンロール』『ガレキとラジオ』『おだやかな革命』の六作品である。 正直にいって、ひじょうにもどかしい本だった。それは、「災害研究においてドキュメンタリー映画作品をどう考えたらよいのかわからなくなった」(二四〇頁)という編者のことばに素直に表明されていることと通じている。「災害ドキュメンタリー映画」というジャンルが仮に存在するとして、その領域へのアプローチは、災害学と映画学の両方向からなされうる。けれども、そもそも本邦の映画学において、ドキュメンタリーの理論研究は明確に遅れている。英米の基本書——たとえばビル・ニコルズの翻訳すらなされていないのが現状である。つまり、災害学からドキュメンタリー映画へアプローチするさいに、参照しうる文献が邦語にはきわめて少ない。結果として、本書が採用しているように、映画の作り手のことばに頼るほかない。 ままならない現場を経て、それぞれにつよい意志をもって作品を世に問うた作り手たちのインタビューは、もちろん意義に富んでいる。しかし、映画作家はその作品において、すでに語るべきことをそれぞれの方法で語っているのであり、なお必要なのは、その作品を受けとめる感性であり、論理ではないか。 ところで、数百におよぶ作品をすべて見ることはきわめて困難であるが、評者は某映画賞ドキュメンタリー部門の一次選考委員をつとめていたことから、完成した映画作品のうち、相応の本数を見てきたつもりでいる。それらの作品すべてに意義があると思う。なぜなら、「被災」というできごとのありようが、それを経験した個人の数だけ違っているという事実を、まず「量」として、明らかにしてくれるからだ。 しかし、そのうえでなお、カメラを向けるその行為が全的に肯定されることはあってはならない。たとえば『311』が、亡くなったかたの遺体を拒否されてさえフレームに収めることを、どのように受けとめるべきか。あるいは、『ガレキとラジオ』の、フィクショナルな「死者による語り=生者による代弁」をどのように考えるべきか。ドキュメンタリーは、このような具体性においてしか存在しない。もちろん本書においても、作り手たちは制作途中の逡巡を語ってくれている。しかし、それに対して聞き手は深く聞くことをしない。そこがもどかしくてならない。 本書でも引かれている映画作家、故・佐藤真によるテーゼ——「ドキュメンタリーもまたフィクションである」は、論理の帰着点ではなく、あくまで前提としてある。それぞれの作品が、そのフィクション性の内実をどのような具体性において生きているか。ドキュメンタリーとは、対象と作り手の関係の移りゆきそのものを一種の虚構として作品化する表現領域であり、その起伏を読みとる感性と論理がなくては、膨大な作品群も取りあつかいに困る散文的な「量」にしかならないだろう。災害人文学という領域横断的な学知が、「人間」によって災害を理解し、災害によって「人間」を理解することによって、防災と復興のありかたに再考をせまるものであるとするなら、それぞれの作品において、どのように人間の「人間」があらわれているかをつぶさに看てとり、理論につがえてゆくことこそが重要であると思う。そのかぎりで本書はまさに災害ドキュメンタリー映画の「扉」であり、さらなる研究の深化、またアーカイブの活用が期待される。(はぎの・りょう=映画批評・本屋ロカンタン店主)★これつね・さくら=東北大学東北アジア研究センター災害人文学研究ユニット学術研究員・美術家。北米や東北で海の民俗文化についてフィールドワークと採話を行う。★たかくら・ひろき=東北大学東北アジア研究センター長(教授)・社会人類学・シベリア民族誌。著書に『極北の牧畜民サハ』『総合人類学としてのヒト学』など。