――コンテクストや批評を必要としない風潮に風穴を――近藤正高 / ライター週刊読書人2021年4月2日号人志とたけし 芸能にとって「笑い」とはなにか著 者:杉田俊介出版社:晶文社ISBN13:978-4-7949-7246-0 今年の年明け早々、ダウンタウンの松本人志がツイッターに「物知りな人は物知りな人の話を記憶している人。やっぱり0から生み出す人がカッコいいなぁ〜」と投稿していた。これには松本らしいと肯定的な反応がある一方で、「どんな天才でも何らかの影響を受けており、0から生み出すなんてことはありえない」といった批判的な意見も見られた。私も後者に同意しつつも、松本の発言は、伝統から切れ、絶えず新たな型をつくっていかねばならないお笑い芸人の宿命ゆえのものではないかと、あるウェブサイトで記事を書いた(「文春オンライン」二〇二一年一月二七日)。 だが、本書を読んでそればかりではないと気づかされた。あの発言には、お笑い芸人全般の宿命という以上に、松本人志という個人の特性が反映されていたのではないか。そう思い直したのだ。 著者は本書に収めた松本人志論のなかで、九〇年代半ばに松本が出したエッセイ集『遺書』『松本』に顕著に表れた彼の傲慢さと罵倒芸の裏側には、自分には何もない、先人の芸人たちにあらかじめ負けているという絶対的な敗北の意識があるのではないかと指摘する。それはつまり、歴史や伝統に対する敗北感であり、歴史のなかでこれ以上何もできないという無力さでもある。 しかし、松本は、先人たちとの巨大な「差」を埋めようと、芸をひたすら磨いたり、一生懸命に何かを勉強したり、貪欲に新たな分野を開拓したりといったことはしなかった。そうではなく、「ただ、ありのままの『松本人志』でい続ける」という奇妙な道を彼は選んだ。そこにこそ松本の芸人としての悲喜劇があると、著者は断じる。 たしかにそう解釈すれば先のツイートも合点がゆく。おそらく松本には何者の影響も受けないと頑なに決め込んでいるところがあるのだろう。 本書は、著者が松本人志とビートたけし(北野武)についてそれぞれ論じた本論というべき第一章と、著者と三組の論者による座談(相手はそれぞれ九龍ジョー、マキタスポーツと矢野利裕、西森路代)を収めた第二章で構成されている。 座談では松本がお笑い界をどのように変えたのか折に触れて確認される。自らも芸人として活動するマキタスポーツは、「ルールが明文化された中で、みんなが機会均等で参加できる競争の場をつくってきた」と、ダウンタウンを笑いの民主化を象徴する存在と位置づける。M-1グランプリやキングオブコントといった大会はまさにそうした競争の場となっている。しかしこれには功罪がある。九龍ジョーは、あるコンビがライブで人種差別的発言をして物議を醸した事件に言及するなかで、いまの芸人にはネタの面白さよりもギミックを発明してるかどうかで勝負したがる風潮があるとして、これもM-1の功罪ではないかと指摘する。そんなふうに笑いを発想の勝負にしたのもまた松本人志であった。「発想を飛躍させていくと、どうしてもある物事が本来もっている固有のコンテクストをすっ飛ばしてしまいがちになる」との九龍の発言は、松本が先人から学ぶ努力を放棄してしまった理由にもつながってくる。 このようにお笑い界には松本のつくったパラダイムがなおも残るが、ある部分では徐々に変化も見えつつある。とくに女性芸人の置かれた状況は、西森路代が話しているように昨年一年間でかなり変化した。 本書で興味深いのは、対話に登場する人たちが著者の論考を踏まえつつ、おのおのの批評に対するスタンスを語っているところだ。なかでも西森が、著者の松本人志論は松本本人には届かないと思うと率直に述べているのが目を引く。そもそも松本や彼に影響を受けた芸人たちは批評を必要としていないのではないかというのだ。西森はそれでも批評を必要としている人はおり、自分はそういう人に向けて書きたいと決意を示す。 ここ最近、ナイツの塙宣之がM-1を論じた新書が話題を呼ぶなど、芸人によるお笑い論が盛んとなる反面、外部からの批評はまだ敬遠されがちである。そんな状況にいかに風穴を開けていくか。私は本書をそれに向けた果敢な第一歩として読んだ。(こんどう・まさたか=ライター)★すぎた・しゅんすけ=批評家。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文芸誌・思想誌などさまざまな媒体で批評活動を展開。著書に『宮崎駿論』『ドラえもん論』『戦争と虚構』など。一九七五年生。