――文学と現代社会の陰湿な構造的暴力を論じる――安冨歩 / 東京大学 東洋文化研究所教授・社会生態学週刊読書人2021年8月27日号「言葉が殺される国」で起きている残酷な真実 中国共産党が犯した許されざる大罪著 者:楊逸・劉燕子出版社:ビジネス社ISBN13:978-4-8284-2302-9 あの凄惨な第二次天安門事件から三二年も経ってしまった。私は、たまたま一九八九年五月上旬に北京に降り立った。天安門広場に何度か通い、胡耀邦元総書記の死を悼む人々や民主化を求める学生たちの間に混じっていた。やがてゴルバチョフが訪中し、街はデモに立ち上がった人々で埋め尽くされた。それを尻目に私は一七日に北京を離れ、天津、瀋陽、長春と旅をして、六月三日にハルピンに到着した。そこでたまたま知り合ったハルピン船舶学院の学生と、四日の午前中に天安門広場の虐殺への抗議デモに参加した。著者の一人、楊逸は五月末に留学先の日本から北京に向かい、一旦、ハルピンの実家に帰って、六月五日に北京に戻った、ということなので私とどこかですれ違ったかもしれない。 私は、中国の人々が、恐れを振り切って街に飛び出し、声を挙げる姿を見て感銘を受けた。それは、バブルに踊る日本社会の姿と対照的に見えた。これがその後の、私の研究の全ての原点になっている。本書で楊逸と劉燕子とが論じているのは、その「恐れ」の実相であり、それを振り切る勇気である。 人間は、閉じ込められた空間で生まれ育つと、それが世界の全てだ、と信じ込むようにできている。たとえ世界の歪みを示す兆候を目にしても、恐れを抱いて目を背ける。二人の著者の思い返す中国での育成過程は、そのケーススタディとでも言えよう。彼らはそこから無意識のうちに逃れ出ようとして日本に留学し、やがて自分たちの思い込みの狭さ、狂気、暴力性に気づく。それは、深い痛みを伴う、厳しく長い自分との戦いである。 劉が日本語に翻訳した王小波『一匹の独立独歩の豚』という小説は、養豚場からブタが逃げて、イノシシとなって自由奔放に生きる、という物語だそうだが、二人は、この「ブタ」という言葉で、囚われを表現し、ジョージ・オーウェルの『1984』を参照しつつ、主として中国やキューバ、旧ソ連・東欧といった共産主義国の言葉の圧殺を論じている。 しかしこの囚われの構造は、日本のような「自由」な国でも同じことである。この本で指摘されている、劉暁波をはじめとする中国共産党への抵抗者に対する日本社会の冷淡な態度は、日本が「自由」で「民主的」な養豚場であることに起因すると私は考える。言ってみれば、中国は荒縄で首を締めて言葉を殺しに来るが、日本は真綿で首を絞めて言葉を空転させる。莫言が村上春樹を抑えてノーベル文学賞を受賞した理由を、楊逸は「背中にのしかかった圧力が全然違う」と鋭く指摘するが、これはこの事情を反映しているのではないか。「共産主義の残酷物語」を世界のさまざまの文学を論じることで描く、というアプローチを二人が採用したことで、その意図を超えて、現代社会が普遍的にもつ陰湿な構造的暴力を論じることに繫がっている点が、この本の価値を高めている。中国と日本とは、実はそっくりなのである。(やすとみ・あゆみ=東京大学 東洋文化研究所教授・社会生態学)★ヤン・イー=作家・日本大学芸術学部教授。著書に『ワンちゃん』(文學界新人賞)『時が滲む朝』(芥川賞)など。★りゅう・えんし=現代中国文学者。大学で教鞭を執りつつ日中バイリンガルで著述・翻訳活動に従事。訳書に廖亦武『中国低層訪談録』など。