――原色をとどろかせる言葉――下嶋哲朗 / ノンフィクション作家週刊読書人2021年9月17日号メヒコの衝撃著 者:市原湖美術館(編)出版社:現代企画室ISBN13:978-4-7738-2104-8 メヒコの衝撃――なんと放縦原色にして危険な人間の源郷であることか。いまでも鎖国のにっぽん人は壊される。習慣とか同調とかいう法則は壊される。不自由があるからある自由はない。拘束があるからある解放は埒外だ。どうにも愉快というしかない原色の野っ原が、その陽と影が、障害物なく見晴らしよく広がっている。学校やスマホの奴隷に進んでなる、それよりずうっと以前の子供はこんな不羈デタラメなガキどもだった。そこに想像力の恵があった。――スズキコージの表紙絵にこの風にとっ捕まって本書を覗けば北川民次、岡本太郎、利根山光人、深沢幸雄、河原温、水木しげる、小田香、原色精神たちがすき勝手存分に飛んでた踊ってた。こんなにも人間は自分の校則を壊し自分の原色に生きよと命じる力にまかせきれるのだ。今さら作家・作品を個々いうまでもない、その集合が野っ原、原色世界、――メヒコの衝撃なのだ。 壊して生きるのであって再生ではない。源郷に還ること、回帰だ。回帰はREVOLUTION/革命(*)である。だから当然革命の文字が頻出する。現代文明に毒されたメヒコ魂はどっこい、熱い原色、民族の源郷へ日常的回帰、革命がふつうのおどろくべき摩擦熱――メヒコの衝撃。こんな不羈放縦原色が音楽、文学、絵画想像力の恵みの郷メヒコ。 画家たちはこんなとてつもないメヒコの衝撃を曝けていた。エッセイ篇が言葉に探り当てていた。「メキシコは野蛮と文化が複雑に交差する、奇妙でありながら、不思議な魅力を秘めた国」――映画監督吉田喜重は、さらに「メキシコという国がはらむ問題があまりにも複雑、錯綜するあまり、隠喩、メタファによってのみ表現可能」だなどと芸術家をそそのかしていた。「私は、世界をそれまでとはまったく反対の側から見る眼を授けられ、地球を本当に丸く、裏も表もなく捉えて理解するようになって」――バイオリニスト黒沼ユリ子は、さらに「メキシコに来てからの私には何もかもが新鮮な驚きに満ち」などと創世記的誘惑をかけてきた。「神戸港に停泊したメキシコの貨物船の船員たちは調理したすべての皿を全否定〔……〕もうメキシコへ行くしかない」――メキシコ料理家の渡辺庸生は、さらに「古代インディオたちの栄養素は満足に近いものがあり、彼らが紀元前四〇〇〇年も前から、このような知識を持っていたのには畏怖の念さえ感じる」などとファストフードの胃袋を恐縮させていた。こうやってにっぽん人の魂に原色をとどろかせるので「まだ見ぬ<メヒコ>への旅」(前田礼)に浮き足だったそこへ、「大きな金槌が眼前に落ちた」生(いのち)を「狙われたと悟った」――メヒコに八年半滞在したジャーナリスト伊高浩昭の身体的体験に冷水をぶっかけられた。けれど「生死は背中合わせで〔……〕生の極限の機敏をメキシコから教えられた。それが現実味を増す深夜の徘徊こそ、実存をかけた最高の散策だった」と眠った冒険心を叩き起こす。今は「たまに訪れるメキシコだが、行くたび真っ先に向かうのは、その一帯である。地底に滲む血の臭いが、老境にあってぼんやりしがちな私を覚醒してくれるからだ」覚醒を回帰に読み替えた。REVOLUTION/革命――原色は血が臭う。読者は「メキシコ体験は日本の根底を揺さぶる」(副題)野っ原へひとまずの旅をするのだ。そして出てゆく、――メヒコへ「実存をかけ」て鎖国にっぽん人の窮屈を出てゆく。(*研究社・新和英中辞典)(しもじま・てつろう=ノンフィクション作家)