――見ることと文学を掘り下げる写真家の態度――白山眞理 / 一般財団法人日本カメラ財団調査研究部長・写真評論週刊読書人2021年11月5日号いのちは誘う 宮本隆司 写真随想著 者:宮本隆司出版社:平凡社ISBN13:978-4-582-23131-1 写真家・宮本隆司は、カメラや人間の認識において、「見るためには闇がなくてはならない」と言う。堅牢な建築物が解体される刹那の退廃美(一九八〇年代)、仮設でありながら主張を感じるホームレスによる段ボールハウス(一九八〇-九〇年代)の作品群は、被写体の「闇」を媒介して都市に潜む生と死の存在感を表している。 ところが、段ボールハウスにヒントを得て製作したという巨大なピンホールカメラ(二〇〇〇-二〇年代)での作品に、「闇」は感じられない。光を受ける「暗箱」のシャッター操作をするため内部に入り込んだ宮本自らが闇の一部となって外界を受け入れた光景には、時間と空間が穏やかに溶け合う。さかさまで裏返しに写る外の景色と内側に居ながらにしてフォトグラムで写り込む宮本のシルエットで成る作品は、混沌たる現実をやわらかく受け止めている。 機械で現実を写す「写真」が味わいのある「作品」となる背景には、作家の深い思索がある。本書前半は、小説家・安部公房、詩人・萩原朔太郎、建築家・原広司、生物学者・福岡伸一らの言葉と伴走しつつ、光と闇、見ること、記憶などについて宮本の思惟が綴られている。自作や創作過程についての語り口の確かさも相まって、宮本の作品世界への理解が深まる。 後半部は、父母が生まれた奄美群島・徳之島での創作と、島の住民のために開催した「徳之島アートプロジェクト2014」について。 無意識に遠ざかっていた父祖の地でピンホールカメラの暗闇に身を横たえた彼は、乳児の頃の記憶が甦るようだったと記す。東京に生まれて、生後まもなくから三年間を父母が生まれたこの島で過ごしたが、記憶未生の頃だったので、実は、思い出せることはないのだ。東京では父母も離島での生活を語ることはなかったのだが、外の景色を内部に埋蔵させるピンホールカメラに潜む間に徳之島が身体に染み入り、血の記憶が甦ったのだろうか。 遡る一九八一年の宮本は、「旅をするのは初めての町や村で全く無意味な存在として、ただ見るということだけに徹した者として在りたいからではないのか」(宮本隆司「色彩のなかの建築像」『住宅建築』一九八一年八月号)と記していた。厳しく非情な「眼」であり続ける異郷の旅とは異なり、二〇〇七年に息子を連れて再訪して以来、徳之島は宮本の因って来たるところを探る場となった。この地を表現したいと思うエネルギーを素直に発する宮本に、建築家・古谷誠章らが賛同してアートプロジェクトが展開され、島はそれをも暖かく受け入れた。 本書の特異なところは、集落の家を訪ね廻って夜通し踊る「夏目踊り」の歌詞解析や、徳之島出身の詩人・泉芳朗の人と作品の解説に多くの頁を費やしているところにあるだろう。男女が掛け合う島ことばの意味を知りたいと文献を読み、解釈を試み、昭和初期に詩集を出版し一九五〇年代の本土復帰運動にも深く関わった泉の作品を多数紹介している。写真家のエッセイと思って読み進めた方は、文学を掘り下げる態度に驚くだろう。徳之島の心を民俗芸能や伝統行事、文学作品の中から理解していこうとするのは、現実の表層を写し取るだけではない表現手段としての写真に向き合う宮本の姿勢の表れだ。 写真家は、写真で表現する。しかし、写真を作品たらしめる哲学は彼のことばの中に見出される。生と死、そして、いのちに向き合う作品が内外で評価される写真家の思いを知る上で必読の書と言えよう。(しらやま・まり=一般財団法人日本カメラ財団調査研究部長・写真評論)★みやもと・りゅうじ=写真家。『建築の黙示録』『九龍城砦』(写真展・写真集)で木村伊兵衛写真賞を受賞、二〇一二年に紫綬褒章を受章。一九四七年生