――文体というよりは律動、思想というよりは霊性――大竹昭子 / 作家週刊読書人2020年10月9日号霧の彼方 須賀敦子著 者:若松英輔出版社:集英社ISBN13:978-4-08-771671-9 第一章を読みだしてまもなく、驚く言葉に出会う。著者は須賀の作品にはじめて接したとき、なじみ深い、懐かしい香りを感じ、「ああ、この人はカトリックだ」と思ったという。そう感じたのは「文体というよりは律動、思想というよりは霊性」においてだったが、カトリックの放つにおいに親しんでいなければこのような言葉は出てこない。本書はそうした反応する者による須賀敦子論であり、その意味で前例がない。 須賀敦子の生き方にも、それを投影した作品にも、信仰の問題が大きく関わっていることはだれもが想像するだろう。だが、これまで書かれてきた文章は、わたしが書いたものも含めてその部分に触れてこなかった。信仰を持たない者が、信仰の問題に触れるのはためらう。容易に入っていけないものを感じて門前で引き返す。 須賀のカトリックはキリスト教の一派を指すのではなく、「一つの世界観」だった。先に挙げた「文体というよりは律動、思想というよりは霊性」という言葉がそれを示している。「文体」や「思想」は抽象的だが、「律動」や「霊性」には頭で考えるのではなく全身で感じとるというニュアンスがある。「祈りのうちに生きるのではなく、生きることを祈りにしなくてはならない」と須賀は考えた。書くことも同様に創作や自己表現を超えて祈りでなければならず、それにより書くという行為は生きることと等価になりうると考えたのだった。 そうした考えがどのように育っていったかを、主として須賀が二十代から三十代にかけて精読し翻訳したカトリック神学と哲学関係の書物にたどっていく。『エスプリ』を創刊したエマニュエル・厶ーニエ、彼と同時代を生きたガブリエル・マルセルやフランソワ・モーリアック、ジョルジュ・ベルナノス。カトリック左派の中心的人物だったシャルル・ペギー、大学院のころ女子学生のあいだで「灯台のような存在」だったシモーヌ・ヴェイユやエディット・シュタイン。 当時のカトリック神学の最前線は「生きることを祈りにする」、行動をともなった信仰のあり方を模索することにあった。そこに共鳴し、この目でその活動を確かめたいと須賀は二十三歳でフランスに留学するが、期待したものが得られずに帰国する。 だがこの失意の時期にこそ、須賀の根っことなる哲学的、神学的な基盤が築かれたと著者は言う。共感する文章に出会うと、それを翻訳してカトリックの機関誌『聖心の使徒』で発表する。自分で書くこともあったが、翻訳することのほうがずっと多かったのは、翻訳には「自分の文章を執筆するに等しい」価値があり、読むこと、訳すことを通してそのエキスを「創造的に受容し、実践」しようとしたからだった。 先に挙げた名前はヨーロッパの神学・哲学者だが、若い須賀に大きな影響を与えた見過ごすことの出来ない人物として、アメリカの修道司祭で、思想家、著述家、詩人でもあったトマス・マートンにも紙幅が割かれている。『聖心の使徒』で発表し、後に単行本になった『荒野の師父らのことば』のまえがきで、須賀は彼のことに触れている。これは日本におけるはじめてのマートンの紹介だった可能性があるという。 マートンは鈴木大拙と交流をもち、ダライ・ラマ十四世をインドに訪ねるなど、アジアの信仰に早くから関心を持ち、仏教とキリスト教に橋を架けることに情熱を注いだ。晩年、須賀は長いこと遠ざかっていたアメリカに友人を訪ねて渡ったが、そのときアメリカへの懐かしさが湧きあがったのに驚く(『須賀敦子の手紙』)。ヨーロッパ一辺倒だと思われていた彼女の意外な一面がのぞきみえる箇所だが、このとき若き日にマートンに傾倒していた自分を思い出していたのではないかと著者は想像するのだった。 最晩年には「ヨーロッパの霊性への憧憬と共に拭いがたく存在する違和の感覚」が顕著だったし、「東洋的霊性とキリスト教の間に高次の交点を見出すこと」が生涯を貫く彼女の仕事になったとも書く。若いころにとりつかれた宮沢賢治の詩との関連性や、「生者を描くとは死者と共にある生者を描こうとすることにほかならない」とする川端康成に「小説のはじまるところ」を示唆された体験を考察した箇所などからは、著者のつぎの仕事は東洋的霊性とキリスト教とのかかわりがテーマになるのではないかという予感を抱かせた。(おおたけ・あきこ=作家)★わかまつ・えいすけ=批評家・随筆家。二〇〇七年「越知保夫とその時代 求道の文学」で第一四回三田文学新人賞受賞。著書に『叡知の詩学小林秀雄と井筒俊彦』(第二回西脇順三郎学術賞)『詩集 見えない涙』(第三三回詩歌文学館賞)『小林秀雄 美しい花』(第一六回角川財団学芸賞、第一六回蓮如賞)など。一九六八年生。