――新島襄と欧米の人々との親交や折衝の様子が鮮明に表れる――小檜山ルイ / 東京女子大学教授・アメリカ女性史・ジェンダー史週刊読書人2020年6月5日号(3342号)新島襄 英文来簡集著 者:同志社大学人文科学研究所(編)出版社:木立の文庫ISBN13:978-4909862099本書は、同志社社史資料センター帰属の「新島遺品庫」が所蔵する「新島襄宛の英文書簡」約五〇〇通を翻刻したもので、既刊の『新島襄全集』(同朋会出版、一九八三―一九九六年)全一〇巻を補完する資料集である。特に『全集』第六巻「英文書簡編」とつき合わせて使用することで、新島襄がアメリカおよびヨーロッパの人々との間で持った親交や折衝の様子が、より鮮明に見えてくるだろう。 同志社大学人文科学研究所は、二〇〇一年以来本書に収録された書簡の解読を進め、一旦『新島襄宛英文書簡集(未定稿)』全三冊にまとめたが、さらに二〇一三年以降、原資料との再照合を重ね、本書の刊行に至った。『全集』第六巻の形式にならい、年次別に手紙を配列するだけでなく、書簡執筆者別の書簡リストが付いている。また、原本は、画像化され、「新島遺品庫」で公開されており、活字化の過程で必ず生じるミス等を後に研究者が検証できる。学問的に緻密で、研究者にとって有用な工夫がなされている。 同志社大学は、創立者に関する資料を保管し整理するだけでなく、それを一般公開すべく長期的な努力を重ねてきた。本書は、その現段階での到達点を示す。資料の公開性は、研究の進展に欠かせないが、キリスト教系の大学に限って言うなら、多くの大学でそれが必ずしも十分に担保されているとは言い難い。資料公開には人的、経済的負担が大きいことがその一因であろうが、そのために、創立者の「偶像化」、あるいは、創立の経緯への誤解や無関心等を克服できない場合がある。学問の府として大学が立とうとするなら、深刻な問題である。本書と、その土台となったこれまでの同志社の努力が、他大学の大いなる刺激となることを願ってやまない。 本資料集を読んで、新島襄、同志社、アメリカン・ボード等について門外漢の評者は、アメリカ人が新島に寄せた絶大な信頼にまず驚愕した。新島襄はアメリカン・ボードの「日本ミッションの通信メンバー」(「準宣教師」と翻訳されてきた)に任命された。これは伝道地の「ネイティヴ」に特別に用意された、在米伝道局と直接交信し、自分の仕事のアピールができ、恩賜休暇でのアメリカ滞在さえ認められるポジションだった。通常の宣教師より年俸は少なかっただろうが、簡単に与えられるものではない。一八八二年、オランダ改革派海外伝道局では木村熊二について、同教派における同じ名称のポジションへの任命を検討し、ある程度の支援を約束したようだが、新島ほどのものではなかった。〔註1〕 さらにアメリカン・ボードは、一八七九年に同志社英学校にかかる費用をボードの日本ミッションの管理から切り離し、同志社で教える宣教師の給与分も含め、新島が資金管理を行うことを認めた。これは同志社が居留地外の京都にあり、日本人に雇用される立場を得た外国人だけがそこに住んで活動することができるという日本の規則に、形式(申請書に書く校主を日本人にするといったこと)だけではなく、内実を伴って従えという日本政府の圧力が新島にかかったことから、アメリカン・ボードが決定したことだ。つまり、新島は、ボードの日本ミッションとは別に、ボードが資金を裏書きする独立の「新島ミッション」を認められたに等しい。ほとんど例を見ない厚遇である。 これほどの厚い信頼を新島がボードから勝ち得た理由――新島のアメリカの父であるアルフィーアス・ハーディが、アメリカン・ボードの諮問委員会(最高意志決定機関)の長であったこと等――はいくつかあろうが、本書簡集が特に明らかにするのは、新島が周囲のアメリカ人に「子供」――アメリカの、特に女性による海外伝道の世界では、被伝道地の人々をしばしばそう表現した――として育てられ、愛された点である。アメリカに上陸したとき、新島はすでに満二二歳であったが、言葉もままならず、無一文の彼は、まさに赤子のように、ハーディ夫妻をはじめとする善意の会衆派教会員に受け入れられ、育てられた。衣食住はもとより、教育、病時のいたわり、休暇における娯楽、ちょっとした小遣いに至るまで、きめの細かい世話を受けた。それらを直接提供したのは、主として一八三〇年代までに生まれた――つまり、第二次大覚醒期を経験した――年配女性たちであり、新島は安心して彼女たちに甘えたようである。新島が自分の必要、気持ち、考えを臆せずアメリカ人に伝えることができたのは、彼が本来持っていた性質にもよろうが、「子供」として受けた愛にその土台があったのだろう。 一九世紀アメリカにおいて、母親は「家庭の光」、「道徳の守護者」とされ、子供を信仰に導く上で決定的な役割を果たすと想定されていた。『全集』第六巻と本資料集に収録された新島と女性たち間に交わされた手紙を読むと、その具体像が見えてくる。新島は、彼女たちの母親的な親切と愛情を通じて信仰に導かれ、また、それに支えられて信仰を維持したのではないだろうか。 このことは、新島の信仰を理解するヒントになる。新島は、オーソドックスなカルヴィニズムの基本的枠組みを維持しながら、〔註2〕進歩的で、人間の自由意志を認める傾向を強めた、一九世紀アメリカの福音主義において広く受け入れられた立場を取っていた。そして、書簡等を読む限り、新島には信仰上の悩みがほとんど見られない。「揺るがぬ信仰」と言ってしまえばそれまでだが、本資料集が明らかしているように、日本への帰国、アンドーヴァやイエールにおける保守とリベラルの対立、日本基督一致教会との合併問題――新島は、主に教会の政治形態の問題と捉えたが、これは、アメリカ由来の教派主義への日本人による批判も含んでいた――等、神学的立場とアイデンティティが問われる局面に新島が度々置かれたことを考えると、動揺しないのは不思議でさえある。 新島は、一九世紀の敬虔な女性たちのように、神学論争には深入りせず(あるいは棚上げし)、自らの信仰に安着して、目的に邁進した。彼の信仰は、単に学んで得たものではなく、また、深い疑いと対決の末に得たものでもなく、敬虔な母親たちの並々ならぬ愛――親切とケア――を経験することで素直に養われたものだった。だからこそ、迷いがなかったのであろう。神学的、思想的には切れがないが、本資料集が明らかにするように、その安定した信仰は、内村鑑三をはじめとする後進たちに、立場にかかわらず、援助を惜しまない寛容と親切を伴っていた。 新島襄はアメリカの母親たちを失望させない素直で、善良で、優秀な息子であった。それは、彼の事業を支えたアメリカ人男性たちから、特別な信頼を引き出したと評者には見える。(こひやま・るい=東京女子大学教授・アメリカ女性史・ジェンダー史)〔註1〕東京女子大学比較文化研究所編『木村熊二日記』比較文化研究所、一九八一年、三三、三六―三八頁。〔註2〕竹山幸男「新島襄の説教を読む」伊藤彌彦編『新島全集を読む』晃洋書房、二〇〇二年、二四一―二六四頁。