絓秀実 / 文芸評論家週刊読書人2016年1月1日号事件! 哲学とは何か著 者:スラヴォイ・ジジェク出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-62487-7ジジェクの著書は、すでに膨大に翻訳されているにもかかわらず、なぜつい読んでしまうのか。その「内容」には使いまわしも多く、ラカン派精神分析の切れ味も繰り返されれば食傷気味となり、読了すれば「金太郎飴」といった感想が漏れてしまうのも不可避である。にもかかわらず、ジジェクをつい読んでしまうのは、ラカンとともにジジェクが拠る「マルクス主義」の大義であり、その大義を失うましとする生き生きとした感性とフットワークである。 本書の原書刊行は昨年だが、にもかかわらずシャルリー・エブドとISによるパリのテロを経験した後に本書を読むことは、動揺する先進資本主義国の(その資本主義の大なり小なりの受権者たる)住人であるわれわれを、更なる動揺へと差し向ける。 シャルリー・エブドに際しては「言論の自由を守れ」という大合唱が起こった。この度のパリのテロに際しても、「憎しみの連鎖」は断たねばならぬと説かれている。いわゆる欧米的普遍主義の確認であり、顕揚である。日本においても、やや文脈は異なるが、安保法制をめぐって「民主主義ってなんだ」という声が高まったのは、周知のとおりである。にもかかわらず、われわれはどこかで、われわれの価値である「言論の自由」が通用しないことを感じており、テロを断つためと称するシリア空爆が断ちがたい「憎しみの連鎖」を増幅させるだろうことも知っている。 そして誰もが知るように、「イスラーム原理主義者」は、われわれの普遍主義を嘲笑するメッセージを、ネット等をとおして発信している。これに対してわれわれは、せいぜい、「原理主義は誤ったイスラーム理解である」とか「それは元来、平和的な宗教だ」とか言うことしかできない。イスラーム原理主義が、われわれを嘲笑する理由である。 ジジェクによれば、「リベラル」(欧米的普遍主義)がイスラーム原理主義に嫌われるのは、彼らがイスラームに対して差別的だからではなく(むしろ、概して寛容たろうとしていることが多い)、逆に、「彼ら(リベラル)が第三世界に対して罪悪感を抱いており、自分たちの生きている世界に疑問を抱いているから」なのだ、ということになる。彼らリベラルの西欧的普遍主義という「古典的な超自我」は「窮地に陥って」おり、「罪悪感を覚えれば覚えるほど(中略)欺瞞的だと(イスラーム原理主義から)非難される」ほかないのである。 問題は、西欧的普遍主義がイスラーム原理主義を「理解」できないということだろう。それが「承認」――「理解」ではない――できるのは、せいぜい「平和な宗教」たるイスラームだけであり、西欧的普遍主義のもとでの多文化共生を謳うことしかできない。では、われわれは西欧的普遍主義を捨てることができるのか。おそらく、それも不可能だというところに、真の問題がある。 ジジェックにめざましい解答があるわけではない。以前の著作でも言われたように、ヴァグナーの『パルジファル』を援用して、「傷は傷つけた槍によってのみ癒される」と言うのみである。言うまでもなく、「傷つけた槍」とは「リベラル(欧米的普遍主義)」のことにほかならない。ジジェクはこの言葉をヘーゲルと結びつけているが、それは同時に、資本主義による資本主義の「止揚」を論じたマルクス主義の原則でもあるだろう。 最後に一つ。ジジェクは日本に関心が深いらしく、幾つかの著書で「たまごっち」や、世界的大作家としての「住井すゑ」などが論じられており、本書でも「禅」が取り上げられている(禅については旧著からの使いまわし)。しかし、それらは「日本」の読者たるわれわれから見れば、ロラン・バルトがパチンコに禅を見出したことに似た奇妙さ(オリエンタリズム?)を覚える。少なくとも、ジジェクは『橋のない川』を読んではいないだろうと思われる(部分訳はあるのか?)。では、われわれのこの感覚は不当なのかどうか。イスラーム原理主義者がジジェクを読めば不当と感じるに相違ないが、それはわれわれが感じるものと、どう違いどう同じなのか。事は単にイスラーム原理主義だけにかかわらない。(鈴木晶訳)(すが・ひでみ=文芸評論家)★スラヴォイ・ジジェク=哲学・精神分析から、映画、芸術、現代政治まで、幅広く論じる。著書に「斜めから見る」など。一九四九年生。