空白から感じられる確かな存在の質感 李承俊 / 聖霊女子短期大学講師・日本近現代文学・文化史 週刊読書人2022年4月8日号 連れ連れに文学を語る 古井由吉対談集成 著 者:古井由吉 出版社:草思社 ISBN13:978-4-7942-2568-9 本書所収の、二〇〇九年の島田雅彦との対談「恐慌と疫病下の文学」で、古井の次のような発言を目にし、ハッとさせられた。「近世に入ってから、いろいろ行き詰まりのとき、戦争によって再生、ルネッサンスを得た。(中略)しかし、そこに出てきた核兵器のために昔のような戦争はできなくなった。いくらよその土地での戦争で経済のルネッサンスを図っても、もう限界がある」。核兵器が発射される戦争にでもなれば、もう人類の再生はない。「円陣を組む女たち」から、古井の作品に変奏されつつ登場するあのセリフ、「皆一緒に死にましょう」が示す状況になるからだ。現在、ロシアとウクライナの戦争を機に再び核兵器の使用の可能性をめぐるさまざまな言葉が国境を超えて飛び交っている。古井は、空からのしかかってくる焼夷弾と爆弾の中を走り抜けながら、「皆一緒に」死ぬ覚悟で過ごしたあの戦争の時代を生き延びた。古井が自ら体験した危機から学んだことに、われわれは耳を傾けなければならない。 本書は、八〇年代から晩年までの、単行本未収録の対談やインタビューを集めたものである。主な話題が古井作品の解説や分析になるのは言をまたない。その中には、生身の作家としての日常的な生活や思考(「夫馬基彦/作家の仕事と生活」)、ハイデガーを中心としたドイツ哲学に関する省察(「木田元/ハイデガーの魔力」)、現代の読書行為をめぐる文明史的な診断(「すんみ/読むことと書くことの共振れ」)をめぐる発言も見られる。 本書全体に散りばめられている話題の一つは、翻訳である。古井由吉はヘルマン・ブロッホとロベルト・ムージルの翻訳者である。特に古井の初期作品を考える際に、ドイツ語文学の研究者であり翻訳者である古井のことを見逃すことはできない。古井は「先導獣の話」など初期作における翻訳の影響を「翻訳から学んだ危機」として語る。「満足な文章を書けてるっていう意識はないんですよね、いまだに」「柳瀬尚紀/ポエジーの「形」がない時代の言語表現」)。実は私も日韓の翻訳をしているが、私の中で日本語と韓国語は常にその都度変換されていると思う。だがその変換が完璧であることなど一度もなかった(今もそうだ)。完璧ではないと常に気づくからこそ、日本語を韓国語に、韓国語を日本語にしてみる。なぜなら、その終わりなき不完全なプロセスを通じて、確かに感じ取られる何かの質感があるからだ。質感とは、日本語と韓国語の間を行き来することで見出される言語的な空白によるものといえるかもしれない。この空白をもって、自分の言語のような何かが確かに在る、と私は感じる。単純な比較はできないが、古井は、日本語とドイツ語の間を行き来することで見出された空白の質感を、また別の次元の文学的な言語から確かめてきたのではないだろうか。 このことは、本書全体に散りばめられているもう一つの話題、空襲体験とも関係する。古井にとって空襲体験の記憶は、不確かでいかがわしく、とりとめのないものである。記憶の内実は不確かであるが、記憶の空白の質感から感じ取られる記憶そのものの存在感は、確かに在る。その手応えを頼りに、記憶されているものと忘却されているものの間を行き来することとは、たとえば世の中の静まりの中から空襲の時の激しい音がよみがえる瞬間を文学的な言葉に置き換える営為になろう(「堀江敏幸/連れ連れに文学を思う」)。 二〇一九年の蜂飼耳との対談「生と死の境、「この道」を歩く」で、古井はこのようにいう。「少し迷信めくんだけど、人災と天災というのは相伴うものかなとも思うんですよ」。古井生前最後の作品集『この道』には、東日本大震災などの自然災害と空襲体験が同等の比重で描かれている。この対談で「ウイルスだって突然変異する」ともいった古井は、今の時代のパンデミックと戦争が、またいつ生じてもおかしくない、と思っただろう。もし彼が今を生きていたのであれば、どのような言葉を届けてくれただろうか。古井由吉さんの空白が沁みる。(対談者:夫馬基彦、柳瀬尚紀、福田和也、山城むつみ、木田元、養老孟司、平出隆、蓮實重彥、島田雅彦、堀江敏幸、すんみ、蜂飼耳)(イ・スンジュン=聖霊女子短期大学講師・日本近現代文学・文化史)★ふるい・よしきち(一九三七―二〇二〇)=作家。「杳子」で芥川賞、『栖』で日本文学大賞、『槿』で谷崎潤一郎賞、「中山坂」で川端康成文学賞、『仮往生伝試文』で読売文学賞、『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞。『古井由吉自撰作品』(全八巻)が刊行されている。