――あらゆる情報が信用に値しなくなる近未来を前に――斎藤貴男 / ジャーナリスト週刊読書人2021年11月26日号ディープフェイク ニセ情報の拡散者たち著 者:ニーナ・シック出版社:日経ナショナルジオグラフィック社ISBN13:978-4-86313-513-0 まだ希望はある、のだという。ディープフェイク(悪意の下にAIで作成されたニセ動画。以下DF)に席巻され、あらゆる情報が信用に値しなくなりかねない近未来について、本書はそう結んでいる。 著者はテクノロジーと政治・社会の関係性に精通し、バイデンやラスムセン(前NATO事務総長)ら要人たちのアドバイザーとして活動している人物だ。DFが誕生してまだ日が浅い現在なら、この危険きわまりない奔流を軌道修正できると、彼女は言う。 ただし条件がつく。〈一人一人が脅威を理解し、守りを固め、反撃することが大切だ〉。要は地球規模の取り組みが不可欠なのである。 DFはそれほどまでに恐ろしい。何が事実かを共有できなくて、まともな対話が成り立つはずがないからだ。 武器にも凶器にもなり得る。すでにDFは映像だけでなく、そこに流す声まで創り出せる。犯罪者にだけでなく、たとえばロシアの諜報機関にとっても、実に有用だ。冷戦以来の〝お家芸〟こと対米ニセ情報作戦を、DFは確実に強化・深化させた。 最も衝撃的な事例として、著者は二〇一六年の大統領選挙への介入を挙げる。投票システムそのものやヒラリー陣営へのハッキング、ソーシャルメディアへの潜入等で、ロシアは米国社会の対立と分断を煽った事実のことだ。 トランプが勝ったのはロシアのお陰だ、と断定できる客観的データは存在しない。けれども本書は指摘している。だからって見過ごすのも間違いだ、今後はこうした事態がますます増えていくだろう、と。 著者の分析は中国にも、そして米国にも及んでいく。従来はマスメディアが主導していた「アジェンダ(議題)設定」機能は、トランプに奪い取られてしまったとする議論が興味深い。 もともと情報のエコシステム(生態系)が脆弱な発展途上国がDFの攻撃に晒されると、より悲惨な結果が招かれがちである。二〇一〇年代に泥沼化したミャンマーのイスラム系少数民族ロビンギャの虐殺も、実は国粋主義の仏教徒がフェイスブックに投稿し、拡散されたデマ情報が引き金だったという。 そう言えば、日本でも最近、政権に従順でない野党やマスメディアをフェイク攻撃している匿名アカウント「Dappi」が、自民党を得意先とするウェブ広告制作会社だった問題が発覚したばかり。例外はどこにもない。コロナ禍はDFの培養土にもなっている。 読み進めるにつれ、暗澹たる未来が見えてくる。「インフォカリプス(情報の終焉)」は、しかも天から降るのでも、地から湧いて出るのでもない。私たち人類自身が自ら、DFによって創り出しつつあるものだ。 だが著者は絶望しない。はたして本書に掲載された、DFに抗して正確な情報を得るための、あるいは技術的にこれを乗り越えんとする組織のリストには刮目させられた。合成動画は有益な目的のために使われる場合も多いから、DFとは分けて捉えるべきで、かつ社会全体で立ち向かわなければならないとの結論も真っ当至極である。 たかが人間に、しかし、そんなことが可能なのだろうか。IT大国エストニアは、「社会の団結と安全意識に関する共通の価値観を育て、維持し、守る」という、心理的かつ長期的な国家戦略を打ち出し、言わば先制攻撃によってDFを克服したというのだが、それは新たなファシズムに通じる道にもなってしまいはしないか。 課題は尽きないが、当面はまず、人間社会がDFに破壊されないようにすることが先決ではある。時間との勝負。とりあえずは著者の提案に乗るしか道はなさそうだ。 敢えて難を言えば、米国に関する章がトランプ批判に偏り、ロシア絡みの記述に比べて弱い気がする。CIAやFBI、NSA(国家安全保障局)が主体となったDFの現実も読みたかった。(片山美佳子訳)(さいとう・たかお=ジャーナリスト)★ニーナ・シック=著述家・政治アドバイザー。ユニバーシティカレッジロンドンとケンブリッジ大学を卒業、歴史学と政治学の学位を取得。次世代のニセ情報やディープフェイクを研究。