――断片としての俳句がもたらした自由――青木亮人 / 近現代俳句研究者・愛媛大学教育学部准教授週刊読書人2021年1月15日号風景と自由 天野健太郎句文集著 者:天野健太郎出版社:新泉社ISBN13:978-4-7877-2019-1「俳句は無限にある/そこに風景と自由さえあれば」。台湾文学翻訳家の天野健太郎句文集冒頭に掲げられた言葉だ。 著者の天野は、台湾文学翻訳者として嘱望される人物だった。日本の大学を卒業後、国立台湾師範大学に留学した天野は聴講した授業で台湾文学の魅力に出会い、台湾文化の紹介とともに翻訳を手がけるようになる。二〇一二年の『台湾海峡一九四九』(龍應台)を皮切りに『歩道橋の魔術師』『自転車泥棒』(ともに呉明益)等を翻訳し、特に香港の陳浩基著『13・67』はベストセラーになった。翻訳は小説以外に絵本や歴史物、随筆と幅広く、作家の呉明益は天野の日本語版を「君と僕の合作」と評するなど、その翻訳業は高く評価されていた。しかし、天野は膵臓癌のため四十七歳の若さで逝去してしまう。 その彼は句作を趣味にしており、俳人の伯父に薦められて詠み始めたという。実は祖父も俳人で、その血筋が彼を句作に向かわせたのだろうか。天野は自他ともに認める飽き性だったが、次第に句作にのめり込んでいく。〈虫食いの葉はまだ空を遮りて〉〈米研げば五指の凍える深夜かな〉等、日常の体験の一瞬を言い留めることに興を覚え、次のような句も詠み始めた。〈小春日や青空一枚指に触れ〉、俳句表現が現出させる世界像に天野は惹かれ、多忙な翻訳業の合間に句を詠み続けるのだった。 台湾関連の句も少なくない。〈マンゴーの皮するすると氷屋で〉〈驟雨打つカフェの女が目を覚ます〉〈高鐵の窓から二月の田植えかな〉(「高鐵」は台湾新幹線)等、見聞した情景を十七字で言い留めており、異国の地を旅する作者のまなざしも微かに感じられる。 天野にとって、俳句は「自由」な世界だった。散文ならば前後の文脈や展開等を考慮する必要があるが、俳句は断片でしかない。そこに在るものを傍観者のように描けば成立してしまう、その距離感が天野には清々しかったのだろう。「私」という煉獄と無縁の世界や文化、自然に「自由」に触れることのできる、魅力的な断片。〈春装はふわっとしてふわふわっとして〉〈台湾の蜜柑を食べる種やさし〉等、そこには社会的価値や意味、理屈や因果関係から解き放たれた「風景」があった。 天野は、翻訳と俳句は似ていると語ったという。「ただそこにあるものを別の言葉に写し換える作業であるから」(本書より)、それが理由だ。俳句でいえば、主役は風景と季語であり、自身の五感や主張は脇役である。刻々と進行する膵臓癌のさ中に詠まれた句、〈春更けて生きる要件滞り〉〈花火とは聴くものと知る寝床かな〉等には複雑な心境や感慨は何も述べられていない。それが彼にとって救いとなり、また一句の季節感は現世に生きる「私」の苦悩を昇華したのであり、そして自句を振り返りながら個人的な記憶を思い出す人生のよすがとなりえたのだ。 本書には寡黙な短詩を愛した天野健太郎の句業とともに、随筆も収められている。台湾の街の息吹が活写されており、句とともに味読すると台湾や日本の各地に佇む天野の姿が彷彿とされよう。思えば、彼の人生は次の句のようであった。 跳びはねて子供落ち葉を摑むまで 健太郎(斎藤真理子解説)(あおき・まこと=近現代俳句研究者・愛媛大学教育学部准教授)★あまの・けんたろう(一九七一―二〇一八)=台湾文学翻訳家・俳人。中国語翻訳・通訳、聞文堂LLC代表を務め、台湾書籍や台湾文化を日本に紹介する活動をおこなった。翻訳書に台湾の作家・龍應台『台湾海峡一九四九』、呉明益『歩道橋の魔術師』、香港の作家・陳浩基『13・67』、呉明益『自転車泥棒』など。