哲学的な問題で道を見失った人にとって恰好の道標に 山田圭一 / 千葉大学教授・哲学 週刊読書人2022年4月15日号 ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』という戦い 著 者:野矢茂樹 出版社:岩波書店 ISBN13:978-4-00-024063-5 ウィトゲンシュタインという哲学者は、戦う哲学者だ。それは彼の私生活におけるエピソードからも伺い知ることができるが、何よりも彼の書き残した文章のうちにそれは如実に示されている。しかしながら、彼が何と戦おうとしていたのかは実のところよくわからない。そしておそらく、『哲学探究』という本を理解することの最大の困難はここにある。そこではどうやら言葉の意味を巡る問題や、心、自己と他者、行為などを巡るさまざまな哲学的問題が扱われているようである、しかし、そこには多くの断片的な言葉の切れ端が論証も結論もなく登場し、その並び方も一見すると脈絡があるようにみえない。それゆえ読者はこの本が何と戦いどこに向かおうとしているかが皆目わからず、鬱蒼とした言葉の森のなかに一人取り残され、途方に暮れることになる。 本書『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』の最大の特長は圧倒的な分かりやすさにあるが、その理由は単に著者が日常的な言葉遣いで当意即妙な比喩を交えて語っている点だけにあるのではない。本書はウィトゲンシュタインの思考の森を航空写真のように上から映し出すのではなく、彼の実際の歩みに寄り添いながら、その都度彼が見ている風景が見える位置にわれわれを誘い、そこからの眺めをともに追体験させてくれる。読者は著者のガイドにしたがって歩みを進めることで、行方を塞いでいた木々の枝葉が取り払われ、見通しのきいた哲学探究の道を散策することができるようになる。『哲学探究』に一度でもチャレンジしたことのある読者であれば、そのあまりの見晴らしのよさに思わず驚嘆の声を上げるに違いない。 とはいえ、本書の分かりやすさは一般向けの哲学概説書がもつ分かりやすさとも異なり、そこではウィトゲンシュタインの思想の哲学的な密度がまったく薄められていない。その理由の一つとして、著者が『哲学探究』の主要な格闘相手である『論理哲学論考』というウィトゲンシュタインの初期の著作の翻訳と解説本を手掛けており、この本に対する深い造詣と並々ならぬ愛着をもっているからにほかならない。つまり、著者は『哲学探究』が対峙していた相手の思考の魅力と手強さを知り抜いている。それゆえ、「語の意味は対象である」という『論理哲学論考』の言語観を崩すために、「ゆっくり」や「しかし」のような対象が存在しなそうな言葉の存在を指摘しても相手にまったくダメージを与えることができないことがよく分かっている。著者とウィトゲンシュタインはこの戦いの困難さを共有しており、そうであるがゆえに『哲学探究』で繰り広げられているさまざまな戦いを極限の思考を突き詰めたスリリングなものとして描くことができているのだ。 そして本書は、ウィトゲンシュタイン研究という観点からも新たな視座を与えてくれている。たとえば、本書で取り上げられている「規則は道標のようにそこにある」(85節)という一節は私も含めてこれまでの研究者がほとんど着目したことのなかった箇所である。しかしこの一節は、われわれの日々の実践に根拠を求め、あらゆるところに規則を必要とすると思ってしまいがちな哲学者に対して、規則は道に迷ったときだけあればよいことを教えてくれる。そしてこの道標の考え方は計算や言語の規則だけでなく哲学的な問題へも適用され、たとえば「私は私の世界である」といった独我論的な言説はわれわれをどこにも導いてくれない道標であることが示される。 われわれはしばしば「哲学」というものに対して、すべての事象の根底にあり、すべての事象を説明してくれるような究極の何かを教えてくれるものだと考えがちだ。しかしそれがいかに幻想にすぎないのかを、本書は繰り返し繰り返し教えてくれる。哲学の問題は一挙に解決することができず、その都度その都度一歩一歩歩きながら考えていくほかないのだ。この点で本書は『哲学探究』という森で迷子になった人だけでなく、さまざまな哲学的な問題で道を見失った人にとっても恰好の道標となる本である。(やまだ・けいいち=千葉大学教授・哲学)★のや・しげき=立正大学教授・東京大学名誉教授・哲学。東京大学大学院博士課程単位取得退学。著書に『論理学』『心と他者』『哲学の謎』『論理トレーニング』など。一九五四年生。