――傷に引き裂かれた過去、実践的な問いを見直す――管啓次郎 / 詩人・比較文学者・明治大学教授週刊読書人2020年9月18日号ランスへの帰郷著 者:ディディエ・エリボン出版社:みすず書房ISBN13:978-4-622-08897-4 ディディエ・エリボンの名を知ったのはずいぶん昔だ。神話学のデュメジル、人類学のレヴィ=ストロースという二人の泰斗それぞれとの対談本を出し、ついで(デュメジルに勧められて)哲学者フーコーの伝記を書いたのが一九八〇年代。彼はまだ三十代半ばだった。いかにもフランスらしい、才気煥発な若手の哲学的ジャーナリストだという印象を勝手に抱いていた。何とまちがっていたことだろう。 二〇一〇年に発表された本書では、一九五三年生まれの彼が五十代を迎えて、知識人としての自分自身をかたち作った要因に容赦のない自己分析を加える。精神の自伝。それはいまも癒えることのない傷に引き裂かれた、忘却し封印したかった過去を再訪する記録となった。 アルツハイマーを発症した父が隔離されてはじめて、息子は自分が脱出してきた場所、かつてそこで自己形成を遂げながらも距離を置いてきた故郷を、母を、訪れる。父の葬儀には参列しなかった。三十年以上接触を絶っていた三人の兄弟と会いたくなかったので。貧しい労働者階級の世界から、家族に大きな犠牲を強いて、自分ひとりだけが遠くへと出て行ってしまったのだ。しかし自分が遠ざけたかったものこそ、自分を形成する重要な部分であることも、よく知っている。悲しみは避けがたい。そのメランコリーの原因を、彼は「分裂ハビトゥス」と呼ぶ。 ハビトゥスとはいうまでもなく社会学者ブルデューの用語で、ある集団特有の物の捉え方、行動の取り方といっていいだろう。ゲイの理論家としてのエリボンは、ブルデューの階級的ハビトゥスの概念を性的ハビトゥスに移し替えようとしたのだともいう。しかし自分の思索においてゲイであることを主題化した彼には、どうしても書けないことがあった。「労働者の息子」だという出自がそれで、階級隠蔽者である彼が、富裕層への条件反射的憎悪から自由になることはない。 ブルジョワジーの子は十一歳でリセに進学する。労働者の子は十四歳で小学校を卒業し、あとは働く。労働者階級から地方都市ランスのリセに進学した少年は、級友との関係においてもことごとく壁を意識する。「二人の友人とは、共存しようとして結びついたふたつの社会史のことであり、時には、どれほど緊密な関係をたどったとしても、ハビトゥスの慣性の働きによって互いにぶつかりあうふたつの階級なのだ。」 亀裂は避けがたい。ブルジョワジーの子には階級への帰属意識がない。それでやっていけるのだ。白人が白人だということを意識しないように。ヘテロ性愛者がヘテロだという意識をもたないように。トロツキストとして、ゲイとして、つねに階級とセクシュアリティを(さらにはランスとパリの地理的・文化的落差を)意識して生きてきた彼は、やがてサルトルとジュネに救いを見出し、ブルデューやフーコーを発見する。 興味深い論点にみちた好著だが、大きなメッセージはふたつあると思う。まず、人は自分の子供時代からは逃れられない(「子どもだった頃の自分とは誰なのか、自分たちが生きた子ども時代とは何だったのか」)。ついで、われわれは闘争を複数化しなくてはならない(「なぜ私たちは、異なる様態のさまざまな支配に対抗する場合、異なる複数の闘争の中から選択を迫られるのだろうか」)。 分裂を生きながら、実践的な問いの構成そのものを見直すこと。いまや独自の位置を占める哲学者=社会学者=思想家となったエリボンの、他の著作もぜひ日本語で読めるようになることを願う。(塚原史訳・三島憲一解説)(すが・けいじろう=詩人・比較文学者・明治大学教授)★ディディエ・エリボン=フランスの哲学者・社会学者。ランス大学とパリ第一大学で哲学を学ぶ。『リベラシオン』紙などで活動後、アミアン大学教授を務めた。著書に『ミシェル・フーコー伝』など。一九五三年生。